百神の王 23
挿絵 しぶき様

オスカーは、心中に、もやもやとして正体のつかめない、嫌な気分が広がりゆくのを禁じえなかった。

一刻一秒でも早く婚礼の儀をあげ、アンジェリークと正式な夫婦となりたい、天則のもと、婚姻の誓いをたて、晴れて彼女と夫婦と認められれば、もう誰にも何も言わせない、そう、思っていた。

ところが、婚礼の儀イコール夜明けをもたらす儀式そのものである、という趣旨のことをミトラ神が言う。

が、夜明けをもたらす儀式というのは、ウシャスであるアンジェリークにも、スーリヤとなった自分・オスカーにも、これから毎日のように繰り返し為すべきルーティンワークである。そして、その決まりきった職務がすなわち婚礼の儀でもあるというのなら…

ウシャスとスーリヤは、在任中、晴天の日は、必ず婚礼の儀を繰り返すということか…?

婚礼というのは…普通同一の相手となら、一度執行すれば十分ではないのか、なのに、ミトラ神の言葉が真実なら、今まで、数多の太陽神は毎朝のようにウシャスと婚礼の儀を挙げてきたことになる。

確かに、アンジェリークは、夜明けをもたらす際、目にも綾な緋色の衣装を身にまとっているし、緋色は婚礼の色である。実際、アンジェリークは、様々なヴェーダ(讃歌)で「初々しい花嫁」という称号で賞賛されているが…

が、何か…何か、おかしくはないか。

何故か、オスカーはとてつもなく嫌な予感に苛まれる

一度婚姻の契りを結んだ男女が、その夜が明けて次の日には、また、何もなかったかのように婚儀を1からやり直す、しかも、それを来る日も来る日も延々と繰り返すなんて…オスカーは、反射的・本能的に「これは何かおかしい」と感じる。

「夜明けをもたらす一連の儀式が、すなわち、俺たちの婚姻の儀式でもあるなら、スーリヤとウシャスは、延々と無限に婚姻の儀を繰り返す…ということになりますが…」

「そうだ、それこそがスーリヤとウシャスの婚儀であると、宇宙創生の折より、天則で定められている」

ヴァルナ神が憮然とした口調で、にべもなく、そう言い放つと、ミトラ神がすかさず、苦虫を噛み潰したような顔つきのヴァルナ神をいさめるように、静かに告げた。

「それがわかっているのなら、ヴァルナよ、おまえも、そうかりかりすることはなかろう。いやでも、その時はくるのだ。しかも、もう間もなく。そろそろ、ウシャスは、その火の若造の…いや、スーリヤの腕を脱し、紅色の牝馬にまたがって、この神殿を発ち、真紅の暁光で空を染めねばならぬ刻限なのだからな…」

「…あ、ああ、そうであったな…スーリヤよ、そなたが、ウシャスから昔日どのような厚情を賜っていたにせよ、だからといって、それは、並ぶ者なき高貴な女神にわきまえもなく馴れ馴れしく振舞っても良いということではないのだぞ。が、そなたが、ウシャスをウシャスとして尊ばぬ無礼、身の程知らずの振る舞いは、今は特別に不問としよう。これは、そなたはスーリヤとなったばかりで、ウシャスの誠の気高さがわかっておらぬことを考慮しての温情に加え、これから夜明けを紡ぐウシャスが心痛めては、哀れであるからだ。ウシャスは、限りなく優しい。そなたがウシャスに対する無礼・無作法ゆえに、我らから咎めを受けたら、心痛めるのはウシャスの方であろうからな」

「……」

『私の振る舞いの何が、身のほど知らずとおっしゃるのか』

そう、口に出かけた言葉を、オスカーは寸前で飲み下した。

オスカーとて、ウシャスが心安らかであること自体に異論はないので、反抗するためだけの反論はすまいと思ったからだった。ヴァルナ神の言うとおり、俺が、ここで、ヴァルナ神にあまりに反抗的な態度を示せば、確かに、優しいアンジェリークが心を痛めるかもしれないという点にだけは、納得できたからでもある。が、ヴァルナ神の言い分全てが肯首できるものではないことと、最低限、自らの当然の権利だけは主張したかった。主張せずには、いられない気持だった。

「私は、ウシャスの夫として、妻を慈しんだだけに過ぎません」

オスカーは、あくまで落ち着いた口調で告げた。が、「自己主張せずにはいられない」行為と心情は、青臭い若さゆえ、そして、自分の立場が不確か・不安定である証拠のような気がして、苦々しい思いも、内心、感じざるをえない。

ヴァルナ神は、そんなオスカーの心境を見透かしたように、「取るにたらぬ言い分だ」とでも言いたげな顔で、横目でオスカーをねめつけた。

「ウシャスと顔を合わせるや、ウシャスをその腕にかき抱いたスーリヤなど…ましてや、いきなり接吻したスーリヤなど金輪際おらぬ。ウシャスとの娶わせの際、歴代のスーリヤはウシャスの美しさに畏みて、最大限の賞賛と崇敬の眼差しを示し捧げるのみであった。彼女の崇高さ、汚れ無き美しさに打たれてな。それ以前に、本来、スーリヤがウシャスの身を抱くのは、天空の道上に出てから、天空の道上でのみ…」

『スーリヤがウシャスの身をその手に抱けるのは、天空の道上でのみ…だと?』

オスカーの脳内で、またも警報が…嫌な警報が鳴る。

今までのスーリヤで、俺のようにウシャスを花嫁として遇したものは居ないことが事実であっても、それは、理解できた。歴代のスーリヤは、就任前にアンジェリークとの知遇を得るという僥倖に恵まれていないのが普通であろうし、初めてアンジェリークの姿を認めた男なら、アンジェリークの可憐にしてたおやかな容姿に心奪われ、暫時、何も出来ずに、ただ、ひたすら彼女に見惚れ、見つめるだけ…になるのは、全く当然のことと思うからだ。事実、オスカー自身も、初めてアンジェリークの姿を火の泉で見かけた時は、その不思議な美しさに目を奪われ、視線を外すことができなかったのだから。

だから、今までのスーリヤが、娶わせの場で、彼女をいきなり抱きしめることなど皆無、そんなことは恐れ多くて思いもよらなかった、というのは、わかる。

だが『ウシャスの身を抱くのは、天空の道上でのみ』というのは、どういうことだ?文字通り解釈すれば、スーリヤがウシャスに触れる機会は、天空の道の上でだけということになるが…まさか、本当に?

己が腕の中に居るアンジェリークが、眼前で、今にも霧散しそうな恐怖がじわじわとオスカーの背筋を這い上がってくる。アンジェリークの腰に回した腕に、自然と力が入る。

と、アンジェリークが、オスカーを庇うように少し身を乗り出した。

「そうです、ヴァルナ様、ミトラ様、オスカー…いえ、スーリヤ様は、私に何も無礼な振る舞いなど、なさってません。私を愛しい…と思ってくださり、大切にお慈しみくださっただけで…」

ヴァルナ神は、アンジェリークの声を聞くや、一転、優しいいたわりに満ちた瞳を彼女に向けた。

「いまだ婚儀を終えぬそなたに馴れ馴れしく触れること自体が、無作法なのだ、そなたは限りなく無垢にして、優しすぎるゆえ、無体や無法の何たるかを知らぬ。知らぬから、何者をも何事をも許し受け入れてしまう、だから、我らが、そなたを守ってやらねばならぬのだ…」

「…俺の彼女への触れ方が無体・無法とおっしゃるか、いと気高きヴァルナよ」

「スーリヤよ、思い上がるでない。ウシャスの崇高にして汚れ無き美しさを、そなたの基準で計れるなどと思うな。これの美しさは…無垢ゆえ。何者にも染まらぬ、何事にもたわめられぬ、生まれたままの清浄さゆえに、ウシャスは…これが放つ光は、この世の何よりも清く美しいのだ。が、この美しさは、無垢であるゆえに儚くもある、ふとしたきっかけで、すぐさま異なる色に染まってしまう危険を孕む…だからこそ、我らは、暁紅を混じりけなしの暁紅のまま、この美しさを保たねばならぬ、そして、それこそが我らが務め、我らが誇り」

「!…それはいったい…」

オスカーの頭の中で、最大級の警報が鳴り響く。

ヴァルナ神の言葉は、全く矛盾しているではないか。

「ウシャスの無垢ゆえの美しさを守る」ことを、ヴァルナ神が務めと思しめしなら、なぜ、ウシャスは、代々のスーリヤの花嫁となってきたのか。嫁すということは、他者と交わること。交わるとは異なる二者が混交しあうこと、そして、一度他者と交じりあったものが原初の姿を保ったままで居続けることなど、可能なのか?いや、そも、それは『交わる』と称せるものなのか。

数多の言葉、情報が、一つの警句となってオスカーの中で形をとりつつあった。

嫌な憶測ばかりが頭に浮かぶ。しかも、それをどうにも否定しがたい。そして、もし、この憶測が正しければ…今までは、俺が半々の可能性として恐れていた通り、覚悟していた通りの事態が、真実ということになる…。

オスカーは無意識のうちにアンジェリークの腰を更にぎゅっと抱き寄せていた。

すると、アンジェリークが、心配そうな表情でオスカーの顔を覗きこんだ。小さく横に頭をふりながら。それで、オスカーは、アンジェリークが、オスカーがヴァルナ神の言葉に気分を害しているのではないかと案じていること、だから「ヴァルナ様のおっしゃることは気になさらないで」という意味合いのことを言いたいのだろうということをその表情から察した。だから、アンジェリークを安心させるように、にっこりと微笑んだ。

アンジェリーク、俺が、心穏やかでいられぬのは、ヴァルナ様の厳しい物言いゆえではない。もっと、根源的な君の存在、君のあり方に関わることで…

ああ、だが、君は多分、何も知らないのだ。いや…恐らく、限られた事しか知らされていないのではないか。

生まれてからこの方「これが正しい生き方」「これが男女の婚姻の形」と教え込まれた一定の形があり、それを当然のこととして悠久に近い時を過ごしてきたら、それを疑うはずがない。

ましてや、彼女は、ヴァルナ・ミトラ両神とラートリー女神以外と接することがほとんどない…というより不可能だ。そして、彼らが、アンジェリークに「ウシャスとしてあらまほしき姿」という一定の枠を定め、ウシャスの役割を忠実に果たしてきたアンジェリークを称揚することでー意識してのものかどうかはわからぬがーその枠内に彼女が自ら留まるように仕向けてきたのなら…。しかも、彼女の無垢なる心は疑うを知らないし、彼らは、純粋に、外界のあらゆる「不快」から、アンジェリークを守りたい、彼女が心痛むようなこと、悩み苦しむような事象から遠ざけたいという善意の動機ゆえに動いていれば…それこそ、限りなく心美しく優しい彼女は、彼らのその善意をのみ、敏く感じ取り、その気持に感謝こそすれ、自分が囲い込まれている現状を疑問に思うはずがない。

恐らく、生を受けてこの方、永遠に近い時間を、彼女は、こうして強力な天界神たちにしっかりと守られてきたのだ…。彼女を僅かでも汚したり、苦しめたりする恐れのあるもの一切から遠ざけられ、ために彼女は、生々しい感情ー憤怒や妬心というネガティブな感情は無論のこと、身を焼き焦がすような恋情や、その帰結としての熱き情欲など、激しい感情の一切を感じたことがなく、だから、それがどんなものかを知らず…いや、その存在すら知らないのではないか…。だから、その種の感情を他者からぶつけられた場合も、戸惑うばかりで理解できないのではないか…。

だが、この行為自体は…アンジェリークを「激しい感情の一切から遠ざける」という行為自体は、決して悪いこととは言えない、と、オスカーは思ってしまう。天界神たちは、アンジェリーク自身を、そして彼女の聖性を「守る」ために、こうして、彼女を厳重に囲い込んできたのだろうから…。

なんとも形容しがたい感情が渦を巻き、オスカーは、切なげに瞳を細めてアンジェリークを見つめた。

アンジェリークは屈託のない笑みをオスカーに向けた。

その様に、ヴァルナ神が、わざとらしい咳払いでウシャスの注意を促した。

「頃合だな、ウシャスよ。今朝もまた、その麗しき腕(かいな)から、艶やかな暁紅を紡ぎだし、万物に美しい目覚めをもたらしてやるがよい」

「承知いたしました、ヴァルナ様」

アンジェリークがはっとしたように、背筋をしゃんと伸ばし、オスカーの腕からすっと身を離すと、流麗な礼をした。ウシャスとしての、包み込むようなほのかな笑みが口元に戻っていた。

「アンジェリーク…」

オスカーは、思わず、アンジェリークに己が腕を伸ばしていた。

ここで、アンジェリークを己の手中から逃してしまったら…一度、その身を手放してしまったら、俺は、もう、2度と彼女をこの腕に抱けない。

そんな理屈ではない恐怖、確信に近い予感が、どうしようもくオスカーを苛んでやまない。

すると、アンジェリークと呼ばれたウシャスの顔は、一瞬、生き生きと輝く、極美しい少女のそれに戻り、オスカーに飾らぬ笑みを向けてくれた。が、次いで、その可憐な唇から紡がれた言葉は、穏やかでいながら、凛とした品格に溢れており、オスカーの居住まいを正させるのに十分な力を持っていた。

「オスカー…いえ、スーリヤさま、私は、今より、この世界に夜明けを、生き物たちに目覚めをもたらさなくてはなりません。スーリヤ様におかれましては、頃合を見て、私の牝馬の後を追ってご出立くださるようお願い申し上げます。紅色の蹄の後を追っていただければ、太陽の馬車は道筋をたがえることはありません。私が夜明けの光を放ち、生き物たちを目覚めさせますので、どうぞ、オス…スーリヤ様は、目覚めた生きものたち全てに、豊かな陽光の恵みを、輝かしい今日という日をおあたえになってください…」

「ああ…」

すっ…と、ヴァルナ・ミトラ両神が、道を開くと、開けた扉の先に、いつの間にか、見るからに愛らしい紅色の牝馬がいた。オスカーも目にするのは初めてのウシャスの馬だった。彼女は、この牝馬の顔をいとおしげに撫でてから、半ば横すわりに馬に跨った。そして一度、オスカーの方を振り向き、にっこりと微笑みかけた後、しゃんと背筋を伸ばし、天空の道へと一歩を踏み出した。

瞬間、オスカーは、心中に、アンジェリークを出立させたくない、このまま、紅色の牝馬を引き戻してしまいたいという、太陽神としては、あるまじき思いが心中に吹き荒れた。

『行くな…行かないでくれ、アンジェリーク。その道に踏み出したら…一度「儀式」を執り行ってしまったら…俺たちは、多分、もう2度と、あんな風に触れ合うことは…』

嫌な予感がオスカーの胸を波立たせてやまなかった。が、実際には、オスカーの脚も腕も動くことはなかった。現実に、彼女が夜明けをもたらすその務めを遮ることなど不可能だとわかっていた。なりたてとはいえ、オスカーも「太陽神スーリヤ」としての栄誉と責任は重々承知していた。

自分の我侭で、しかも、単なる「嫌な予感」で、夜明けの到来を阻むことなど許されるわけもない。陽の光の訪れを待っている数多の生き物たちの希望を奪うことなど、この世界を暗夜のままに置いて、生き物達を混乱と不安に陥れることなどできるはずもない。自分は、新米といえど、たった1人の太陽神スーリヤなのだ。その責務は決して疎かにしていいものではないのだ…。

それがわかっているから、オスカーにはアンジェリークを見守る以外、為す術はなかった。

が、そうでなくとも、オスカーは、アンジェリークが、夜明けを紡いでいくその光景のあまりの美しさに心奪われ、目を見はるばかりだった。

彼女の馬がゆっくりと歩みを進めるごとに、その蹄のあとが、ぽぅっと明るく光る。彼女がしなやかな腕を右に左に一振りするたびに鮮やかな紅色の光が、艶やかな絹布を広げていくように翻り、迸る。暗紫色だった空が、少しづつ、艶やかな紅の色に染まっていく。

彼女が、その腕から夜明けの光を紡ぎだし、限りない優しさと慈愛をもって、生き物たちを目覚めさせ、人々を祭祀に、生業へと促していくさまが、つぶさにわかる。

その荘厳にして、優しさと美しさに満ちた光景に見惚れているオスカーに

「さ、スーリヤよ、ウシャスが拓きし道を辿り、彼女をその腕に抱いて、夜明けの光と眩き陽光を不可分のものとするがよい」

といって、ヴァルナ神が出立を促した。

「は…」

オスカーが、はっと我に返ると、いつのまにやら眼前に、自分の馬たちが、そして、威容を誇る馬車…というより、巨大な戦車のような乗り物が引き出されてきた。

先頭の馬が、オスカーの姿をみて、軽くいなないた。オスカーは、先刻までの嫌な予感や緊張を、その瞬間は忘れ、思わず顔をほころばせていた。

「アグネシカ、やっぱり、先につれてこられていたんだな。なんとも立派なドライビング・ホース姿だぜ」

馬が、オスカーの言葉を肯定するように、ぶるる…と鼻息を発した。

オスカーに…新たなるスーリヤに、疾く、栄えある天空の道に1歩を踏み出さんと、意気軒昂に促しているかのようだった。

 

太陽の馬車は、未だ、何の熱も光も発してはいなかった。

太陽の馬車は、太陽神が乗り込むことで、初めて輝き、比類なき熱さと光を全世界に放つのだということを、今のオスカーはよく知っている。スーリヤの名を継承した際に、太陽の馬車の構造、馬車を操る手順などの基本的な知識は、頭に直に叩き込まれていた。

だから、オスカーは、火の鞭を手に、迷わず御者席に乗り込もうとした。その時だった。

「若きスーリヤよ、初の儀式を寿ぎ、神酒ソーマを、一献、俺から差し上げよう」

屈託なさげな呼びかけの声とともに、オスカーは目の前に、高杯を差し出された。

「スーリヤの仕事はきついからな、これを飲んでいきなさい。神酒を飲んでいかないと、いくら君が、若くて活力に溢れた若神でも身体がもたないよ」

振り返れば、杯を片手に、にこにこと人のよさ気な顔で笑いかけている男神がいた。ヴァルナ・ミトラ両神より些か年嵩に見えるこの男神に声をかけられて初めて、オスカーは、神酒ソーマを喫することを失念していたことに気づいた。天界で神の名を継ぎ、力を解放されてから以降、神は、神酒ソーマを喫することで、その若さと神力を保つようになる。一般的な食物は、いわば嗜好品のように、摂っても摂らなくても良いものになり…逆に言えば、神酒ソーマさえ喫していれば神はそれで生きていけるし、何を食そうと、ソーマを飲まねば神力を保てなくなってしまう。神酒ソーマは、神の名を持つものにとっては、いわば、命の水だった。オスカーは目の前の神に感謝しつつ、杯を素直に受け取った。

「かたじけない、失念しておりました」

香の良い酒を勧められるまま一気に飲み干した。ほのかに甘いそれは、するりと喉に流れ込み、胃の腑に落ち着いた。途端に身体の中心が、かっと熱を帯び、次いでその熱がじわじわと全身に巡り行く気がした。

神酒を綺麗に飲み干したオスカーを見て、壮年の男神は、満足げに頷いた

「それでいい。あのウシャスを前にして、一刻も早い出立をと、気が急くのは当然のことだから、気にしなくていい。ただ、これからは、出立前に、必ずこのソーマを一杯は飲んでいくのを忘れぬように。私の従者に杯は用意させておくから、いいね。この神酒が私たちの活力と神力の源なのだから」

「お気遣いありがとうございます。失礼ですが、あなたは、もしや月神にして神酒の神、ソーマ様ではございませんか?」

「ソーマでいい。太陽神であるスーリヤの君と、月神の私とは、いわば兄弟神だからな」

壮年の男神は、人懐こい笑みを浮かべた。目尻に感じのいい笑い皺が浮かんでいる。光神の例に漏れず端整な目鼻立ちだが、他を圧するような眩さはなく、全体的に温和で明るい気を放っていた。癖のない穏やかな輝きの金の髪を、無造作に後ろに一くくりに束ねて流している様も、この神の気取りのなさをうかがわせた。ヴァルナ神と同じほどの高位神とは思えぬほど親しみやすい雰囲気の持ち主だ。

「ありがとうございます、おかげで、腹の底から、なにやら、力が湧いてきたような気がいたします」

「ソーマが欲しい時は、いつでも私に声をかけてくれ。遠慮はいらないよ。神酒で神々の活力と若さを保つことが、私の仕事なのでね。ソーマの味わいも、好みに合わせて調整もしてさしあげよう、濃いの、甘いの、いかようにも注文を出してくれ」

「恐縮です。では、俺はそろそろ…」

月神ソーマから直々に神酒を賜ったことは、至極名誉なことはわかっていたが、オスカーは、先に出立したアンジェリークを一刻も早く追いたくて、そわそわしていた。

その性急な若さをみてとり、月神ソーマは、理解ある苦笑を浮かべた。

「ああ、これは無駄話しで引き止めてすまなかった。先ほどのやり取りを見るに、どうやら、君は、ウシャスと浅からぬ縁の持ち主らしいしな。今朝の暁紅が、何時にもまして、ことのほか見事なのも、ウシャスが君の訪れを待ち焦がれているからだろう。さ、君の到来を待っている暁の女神を迎えに行ってやるがいい」

「は…」

オスカーは、居並ぶ高位神たちに、改めて一礼して、馬車の御者席についた

「アグネシカ、俺たちの初仕事にして…この世で最も美しい女神をこの手にしにいくぞ、張り切ってくれ」

いうや、オスカーは馬の背に、軽く一鞭をくれて、出立の合図を送った。

オスカーが手綱で合図を送るや、馬車は、ゆっくりと天空の道へと、その1歩を踏み出した。

背後で、諸世界からの汎神たちが、固唾を呑んで自分の背を見つめる気配を、オスカーは感じた。

オスカーが太陽の馬車を御さんと、火の気を発するや、太陽の馬車がー正確にはその車輪部分が瞬時に燃え上がり、誰にも直視できないほどの熱と光を放ち始めたからだ。そして、オスカーには知る由もなかったが、その瞬間、儀式の成就を見届けるべく、ヴァルナ・ミトラの両神が、太陽の熱気と光だけを適宜に遮り、スーリヤとウシャスの姿は透して写す遮光幕を工巧神トバシュトリに張らせた。

オスカーは、太陽が己の火の気に呼応して力強く燃え始めたこと、馬達もオスカーの発する力強い火の気を浴びて意気盛んに馬車を引かんとする様子を感じ、満足気に馬たちを見渡した。足並みはきちんとそろい、馬たちの士気は高い。

それを見てとったオスカーは決然と頭をあげた。

今、為すべきは、先導するウシャスをこの手にすること。

この腕に、今一度、あの華奢で柔らかな身体をかき抱き、思い切り抱きしめること。

そして俺の放つ太陽光とアンジェリークに紡がれし暁紅は、その瞬間、不可分に溶けて交じり合い、一つの光となって地上に降り注ぐ、俺と彼女の紡ぎし光明は世界の隅々まで遍く広がり満ちわたる。この一連の儀式をもって、俺と彼女の婚姻は為されるのだ…。

永年、夢見てきた瞬間のはずだった。本来、願ってもないことだった。

なのに、オスカーの胸中は、晴れやかさや悦びよりも獏とした不安も同じほどに渦巻いていた。

それは「始まり」であると同時に「終わり」でもあるような気がしてならない

だが、もはや、後戻りはできない、する気もない。俺は、アンジェリークを追い、彼女をこの手に抱きしめるだけ、それ以外に俺にできることはない、いや、そうせねばならないのだ、この世に夜明けをもたらすため、陽の光でこの世界を満たし、万物を育むため。

俺は、太陽神スーリヤなのだから。

アンジェリークの牝馬が、その馬上の麗しい姿が、オスカーの間近に迫っていた。

アンジェリークが、背後に迫り来る馬車を気にして、後方に身を乗り出さんばかりにしているのが、見て取れた。

馬車の到来を、いや、オスカーの到来を、彼女が心待ちにしているのが否応なくわかり、それが、わかったからこそ、この後待ち受けている運命を思うと、オスカーは切なさと愛しさで、胸がかきむしられるような心持がした。

 

アンジェリークは艶やかな紅色の光で、空を染め上げながら、今朝は、殊更にゆっくりと馬を進めていた。

オスカーが、オスカーの御する太陽の馬車が神殿を出立した気配を感じたから。

自分の後を追ってくる、自分を求めているオスカーの気配を感じていたから。

早く、追いついて欲しくて、自分の傍に来て欲しくて、アンジェリーク=ウシャスは、ずっと視線を背後に向けたままだった。

いつもはー今までは、決して後ろを振り向くことなどなかった。地上の様子を気にかけることはあっても。

でも、今は、ひっきりなしに後ろを気にしてしまう。いいえ、ずっと、背後に目をやったまま、視線をそらせない。

オスカーが、私をおってくる。懸命に、ひたむきに、馬に鞭をやり、馬車を駆っているのが見えるから。

オスカーに、早く、私の傍に来て欲しい、私、腕を広げて、あなたを待っているの。今までのスーリヤ様のように背後から私を捉えて抱くのではなくて、真正面から、私を抱きしめてほしいから。私も、あなたを抱き返したいから。そして、できれば、今一度、あの身も心も蕩けるような「口付け」というものを、私に与えて…。

でも、私の体は、それまで「保つ」かしら…あなたに抱きしめられ、口付けを受ける間、この身と意識を保っていられるかしら…あなたの火の力は、あなたの御す太陽の馬車は今までのスーリヤ様のそれと比しても、一際力強いのが、ここからでもわかるから…。

だから、その時が来るのが恐い…あの瞬間を恐いと思ったことなんて初めて。

一刻も早く光の粒となって大気に散らばってしまいたいと思うことはあっても、なるべく長く、この身を、意識を保っていたいと思ったことなんて、初めてだから。だから、どれくらい、この身を保っていられるか、それを考えると怖いんだわ…

アンジェリークは身体にひしひしと迫り来る、オスカーの若々しく力強い火の気を、全身に感じていた。

アンジェリークの身を、太陽の熱気から守るための緋色の衣が…火の泉で沐浴して纏った衣が、オスカーの発する熱気で、少しづつ千切れて飛び散り、紅色の断片となって中空に消えていく。千切れて空一杯に広がり行く、その紅色の衣の切れ端が、夜明けの空を更に美しい紅の色に染めていく。

アンジェリークに着々と近づいていくオスカーにも、その様は、はっきりと見てとれた。

自分が近づくにつれ、アンジェリークの身を覆う紅色の衣が…熱から彼女の身を守る火の衣が、この太陽の熱気を受け止め、中和し、ために千々に千切れ飛び散っていく様を。己が1歩、また1歩と近づいていくにつれ、彼女の身を覆う衣が、それこそ朝霧のように儚く消えていき、アンジェリークの美しい素肌が、少しづつ露になっていくのが、よく、わかる。

元々、緋色の衣は火の気が凝ったものであり、物質としての実体はない。衣の形をとってはいても、本質は彼女の身に寄り添うようにまとわりつく紅色の霞のようなものだ。先刻の神殿で、オスカーには…多分、列席者にもだが…美しく均整の取れた彼女の身体のラインがーまろく豊かな乳房の膨らみや優美なS字を描く腰のラインが、紅色のあわいの下にうっすらと透けて見えていた。それが、また、例えようもなく美しく、蠱惑的で、並ぶ者の目を奪い、魅惑していたのだ。

その、なよやかな紅色の衣が、今、千々に千切れ消えいくことで、珠のように滑らかで、透きとおるような白さの素肌がオスカーの眼前に少しづつ露にされつつあった。アンジェリークが、可能な限りその身を捻って、身体ごと、オスカーのいる方向を向こうとしてくれているので、優美な首から肩にかけてのラインも、見るからにふっくらこんもりとした乳房の膨らみも、はっきりと目に入る。乳房の頂点に可憐に咲く桜色の乳首も、ちらちらと見え隠れする。先刻抱き寄せて、そのきゅっとすぼまった細さがまるで蜜蜂のようだと思った腰のラインは、既に、何にも遮られることなく、オスカーの目に映る。いまだ、所々に、うっすらと残っている紅色の霞が、抜けるように白い肌の色を、より引き立てて、全裸よりよほど艶かしい眺めをかもし出している。

あえかな金色の叢さえもが、消え行く衣を通して、ちらと見てとれた時、オスカーの頭は、半ば沸騰しかけていた。

こんなにも美しく、扇情的で、清らかな眺めは、この世に2つとない。これほどまでに人を魅惑してやまない存在は、二人といない。

何が起きるか、頭ではわかっていて、それが恐ろしくてたまらないのに、オスカーはアンジェリークに腕を差し伸べ、その身を抱きしめずにはいられなかった。

「アンジェリーク!」

太陽の馬車がアンジェリークの馬に追いつき、更には、オスカーのいる御者台から、アンジェリークの牝馬に手が届きそうな距離に近づいた瞬間、アンジェリークがオスカーに向かって、大きく腕を広げた。オスカーに抱いてほしいと、全身で訴えてくれていた。火の衣は、既に半ば以上燃え尽き、アンジェリークの乳房が、あげた腕の動きにつられて、震えるように揺れた様も、その桜色の可憐な蕾が緊張か、期待からか、オスカーを挑発するように硬くとがっている様も間近にはっきりと見えた。オスカーは、馬車の手綱を片腕にからげて、一瞬、腕を大きく広げて、アンジェリークを牝馬の背から奪うように抱こうとし、そして、実際、思い切り抱きしめた。

その時、確かに、彼女の存在を全身で感じた。その柔らかな身体。華奢な骨組み、芳しい香、己の胸の中でやわらかく潰れる乳房の感触まで、衣が、ほぼ消え去っていた分、はっきりと、ありありと。

同時に、ほぼ反射的にオスカーはアンジェリークに口付けていた。

先刻味わったのと同じ、蕩けそうに柔らかな彼女の唇の感触、芳しい息遣いを感じた次の瞬間

『オスカー…好きよ…オス…』

オスカーの頭の中に、直に、甘いかわいらしい声が切々と響き渡ると同時に、オスカーの腕の中に確かにあった、柔らかく暖かな肉体が、瞬きする程の間に、爆発するように、無数の光の粒となって飛び散り、オスカーの腕は何もない空を切った。

「!!!っ…アンジェリーク…アンジェリーク!」

オスカーの腕は、手綱を腕にからげたまま、中空の何もない空間を抱く形で固まった。

この瞬間、これが、太陽神と暁紅の女神の婚姻の形だと、オスカーは身をもって知った、否、知らされた。

 

その後、オスカーは、自分がどうやって馬車を駆っていたのか記憶がない。

身体は勝手に動いて、馬車を器用に操り、馬たちはアグネシカの統率もあって、足並みを乱すこともなく一定の速度で天空の道を駆けていった。人の目には見えないが、ヴァルナ神が拓いたという天空の道は、確固と手に触れられる形で存在しており、馬たちは、その道を外れることもたがえることもなく、滑るように歩みを進めていく。出立前に喫した神酒ソーマのおかげで、オスカーは体調もすこぶるよくー終日、空腹や喉の渇きを感じることはなかったー何もかもが、初めてとは思えぬ程、順調だった。

が、欠落の感情がどうにも抑えきれぬのは、だからこそか。

太陽の馬車を操っている最中、オスカーは、時折

「アンジェリーク…」

と、静かに、探るように彼女の名を声に出して呼んでみた。耳に聞こえる己の声は、何故か、とても小さく微かで、消え入るようだ。オスカーの喉からは、どういうわけか、普段の、朗々と艶のある声が出てこない。

呼べど、返事のないことを、頭のどこかで、わかっているからだろうか…

彼女は本性である光に戻り、遍く拡散して大気と陽光とに融け、交じり合って、この世界の全てを包み込む存在となったのだから。また、明日の夜明けに、光の気を凝縮させて、その身体が再構築されるまで…。

「アンジェリーク…」

それでも、オスカーは、アンジェリークの名を口にせずにはいられなかった。

彼女の気配が、朧に薄く空気中を漂っているような気がしてーいや、そう思いたくて。目には見えずとも、彼女は、俺の傍にいる、俺を包み込んでくれているのと同じだと、必死に言い聞かせずにはいられなくて。

実際、彼女は、この中空に「存在」はしている筈なのだ。あまりに薄く、満遍なく散らばってしまっているうえ、自分の放つ陽光と不可分なので、見分けることができないだけで。

その理屈からすれば、確かに、俺と彼女とは、今一つに解け合っている、という言い方もできる。

だから、これが「太陽と暁の婚姻なのだ」と言われれば、修辞学的には正しいのだろう。

だが、これで、スーリヤとウシャスの婚姻は全てだとしたら…

スーリヤとなって、知覚が信じられないほど聡く広がったせいか、それとも、特別な結びつきがあるからか、今、この場にいずとも、直には見えずとも「仲間」であるオリヴィエ=サヴィトリとチャーリー=プーシャンの気配は、探ろうと意識した瞬間、すぐ、どこにいるのか、閃くように知覚できる。加えて、自分が彼らに「来てくれ」と心で呼べば、彼らは即座に俺の傍にはせ参じてくれるだろうことが、理屈でなく、肌身でわかる。そうでなくとも、ラートリーやヴァルナ・ミトラ両神が自分の頭の中に直に言葉を伝えてきたように、天空神スーリヤとなった今、自分もまた、心で念じ思ったことを、音声を介さずとも他者に伝える術を体得しているのではないかとも、オスカーは思う。

なのに…誰よりも近しい筈のアンジェリークの気配が、オスカーには、今、ほとんど感じられないのだ。彼女がどこにいるのか、すぐ俺の隣にいるのか、光の粒となって俺の全身を遍く包んでいるのか、必死に気配を感じ取ろうとしているに、だ。もちろん、思念での彼女への呼びかけは、していない時間の方が少ないほどだった。だが、幾度、呼びかけようと、彼女は僅かも応えてくれる気配を見せない。

だから、どうしようもなく不安になる。

こんなにも希薄な存在となってしまった彼女が日没後に、どこかで、実体化などできるのだろうか。俺は、夜明けをもたらす儀式以外に、彼女とまみえることはできるのだろうか。

オスカーは、もはや、自分とアンジェリークの関係を、全く楽観できなかった。

そう思った時、オスカーの心身に、アンジェリークが申し訳なさそうに「スーリヤとなることが、幸福かどうか、わからない」と自分に告げた訳が、本当の意味で、重くのしかかってきた。

薄々、覚悟はしてきたつもりだった

が、実際には「覚悟しているつもり」だけだったのかもしれない。俺の覚悟とは、その程度のものだったとしか思えない。

それ程に、己の腕の中で、瞬時にして霧散するように消えてしまった思い人の喪失感は甚だしかった。

と、同時に、得心した。

高位神たちは知っていたのではないか。俺が、あの場で、彼女を抱きしめる以上は何もできないことを。

ヴァルナ神とラートリー女神がご立腹だったのは、かの神たちが、俺が「男」の立場から、ウシャスを「女」として求めるこの感情を「君を汚し苦しめる恐れのある」凶つ事、遠ざけた方がいい事象だと考えているからだろう。

が、その場で無理に引き離されたりしなかったのは…しかも、彼らが、暫時、俺がアンジェリークを抱きよせるのを黙認していたのはーそう、苦言を呈されはしたが、あれは事実上黙認だったーそれは、俺がこれ以上、彼女と深く密に触れ合うことなど、どうせできないと…知っていたからではないのか、だから余裕をもって、俺の青臭い独占欲に満ちた行動を、苦々しくは思っても、「今だけのこと」と鷹揚に眺めていられたのではないのか…と。

そして、ならばこそ、ミトラ神の俺を哀れむような眼差しも理解できるというもの…。

どれほど請うても、血を吐くほどに求めても、決して与えられることのない物を、俺が欲していることがありありとわかったから…それを男として『哀れ』と思し召したのではないか…。

それは、俺が、彼女を『女』として得ることは、所詮、不可能だということを意味しているのではないか…つまり、どうあっても彼女は、夜明け前のあの時間、あの神殿と天空の道でしか実体化できないのではないか…。

オスカーは、背筋を這い登るような嫌な感覚を無理にでも振り払おうとするように、頭を振った。

いや、日没を迎えるまでは、まだ、結論を出すには早い。たとえ、日没を迎えても、雨季の訪れがあるまでは、わからない。雨季なら、彼女も、もっと長い間、その身体を現世に保っていられるかもしれないではないか…。

オスカーは、一縷の望みにすがりつく。

半ば、結果を知っているからこそ、現実を認めたくなくて、結論を先送りしているだけだという自覚も、内心は、あった。

全ては、この馬車を西の端の神殿まで運べばわかること…だ。

そう思い直し、オスカーは他の思考一切を締め出して、御車に神経を集中した。

 

西の神殿の姿が目に入り、オスカーは馬車に制動をかけはじめた。馬たちの足並みを、すこしづつ緩やかにしていく。

太陽の馬車が近づくにつれ、神殿の大門がゆるゆると開かれゆくのが目に入った。と、同時に、目が覚めるような紺碧の色を呈していた空が、天頂にあたる部分から少しづつ色を深めてゆくのが見てとれた。

薄紫から群青に空の色がその濃さを増していって、太陽の馬車から発する朱色の光と、しばらく拮抗し、だが、馬車が速度を落とすにつれ、朱の光は、少しづつ火勢を弱めていき、深い空の色が勝りがちになっていく。

薄暮から宵闇が少しづつ天空全体を覆っていく様子、そして、広がり行く薄紫の夕映えに、最初の星が瞬きだす瞬間、これはこれで、やはり、息を飲むほどに美しいと、オスカーは素直に感嘆する。

アンジェリークが紡ぐ暁紅の美しさが生命の躍動と活力を象徴する「陽にして動」の美であるのなら、ラートリーが司る天空を覆う夜闇は、静寂と安寧を象徴する「ひそやかな静」の美だ。

夜明けのそれとは、美しさの趣も性質も全く異なれど、宵闇の美しさそれ自体に遜色はない。伊達にウシャスとラートリーが姉妹神と言われているのではないなと、オスカーは思う。

そして、馬たちは、西の最果ての神殿の門を無事くぐった。その瞬間、夜闇が、太陽に替わって、この天空の支配者となる。ラートリーの濃紫の衣が中天を覆うや、無数の星星が一斉にまたたき煌めき始め、ラートリーの衣を彩り、その美しさをより完璧なものとした。

一度地平の西の端に没した太陽の馬車は、この時点で、夜の女神ラートリーの支配下に入る。ラートリーの懐に抱かれ、その熱を冷まされる。馬たちが闇の安寧に包まれて憩い、身体を休める間、馬車の車体はトバシュトリ神の工房で整備され、未明に東の神殿に戻される筈だ…太陽神になるための誓詞を唱えていた折に、日没後の基本的な知識と情報も、しっかりと頭に植え付けられていた。

だが、その間、俺は…アンジェリークと手を携えるのか…太陽に関する知識は不足なく与えられているのに、アンジェリークが、火の泉で夜明けの禊を始めるまで、何処にどうしているのか、それすらもわからない。アンジェリーク=ウシャスに関する知識は、いまだ空白のままだった。

馬車を降りると、真っ先に、初仕事を終えた馬たちを一頭一頭労った。特に、アグネシカには心からの感謝を捧げた後、オスカーは神殿の牧童ともいえる仙たちに馬の世話を任せると、力強い足取りで、神殿の中に入っていった。

神殿の広間には、オリヴィエとチャーリーが既にいた。オスカーの初帰着を待っていたらしく、オスカーの姿をみとめるや、晴れやかな顔で、駆け寄ってこようとした。オリヴィエもだが、特にチャーリーは、体中から、オスカーに話しかけたいという気を発していた。恐らく、出立前にみた自分とアンジェリークの関係を質したいのだろうその気持は、いやというほどわかったが、オスカーには、彼らの質問に答える前に、したいことがあった。

二人の歓迎を手を上げて受けつつ、詮索は遮ると

「夜の女神ラートリーよ、あなたに質したいことがある、俺の前に、姿を現してほしい」

オスカーは、果ての知れない濃紫の空に顔を向けて声を発した。同時に、ふと、思いついて、同じ趣旨の思念を天頂に向けて放った。

『…承知いたしましたわ』

明らかに乗り気でない声音が、オスカーの脳内に直に響き、と、次の瞬間、玲瓏な美貌のすらりと長身の女神が、オスカーの眼前に現れた。その冷ややかにして、いささかの隙もなく整った美しさは、まさに、夜空そのものだった。

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