「よかったー!ようやっと目ぇあけてくれたでー!」「っ…たく…とりあえず、これ飲んで」
差し出される、というよりは己が手に押し付けられた杯を、木偶のように受け取り、オスカーは促されるままにその杯に口をつけた。頭は、まだ、ぼんやりとしていたが、身体がその杯の中身を渇望する声をあげている、そんな気がして、手が自然と動いて杯を傾けた。
口の中に流れ込んできた液体は、渇いた唇に文字通り染み入るようで、一口目を静かに嚥下するや、オスカーは、弾かれたように、杯の残りを一気に飲み干した。待ちかねていたように、すかさず差し出された二つ目の杯も、オスカーは瞬く間に空にする。飲み干すほどに、自分の体がいかに渇いていたか、この液体を求めていたかを、実感した。
深い香気の微かに甘いその液体は、オスカーの喉を滑り降り、五臓六腑の隅々まで染み渡っていく。喉が、いや、体全体が潤されていくにつれ、腹の底からじわじわ活力が湧き出て来、四肢に漲っていくのを感じた。
「ふぅ…」
数杯を空にして、オスカーは漸く人心地がついた、といった観の吐息をついた。
実際、寝起きとは比べ物にならぬほど、今、オスカーの頭はすっきりと冴えていた。身体も軽い。夢の中で、足掻けどももがけども、どこにも進めなかったもどかしさ、どぶ泥の中を這いずるかのような嫌な脱力感は、今は微塵も感じられなかった。今しがた自分が喫した液体・神酒ソーマが神となった己の体にいかに必須のものか、改めてこの身をもって知った。
「もう十分?足りた?」
「ああ、存分に頂戴した…」
オスカーが顔をあげると、大きな瓶を抱えたままオリヴィエの後ろに控えている仙がいることに気づいた。この仙がオスカーが欲するだけ、杯を次々と満たしてくれていたこと、恐らく、この者は月神ソーマの遣わした神酒を供する仙だと察したオスカーは
「この杯を用意してくださっていたソーマ様に、スーリヤがお礼申し上げていたとお伝えしてくれ。ソーマ様のブレンドは、俺の口にとても合ったってことも、忘れずにな」
と丁寧に労をねぎった上で、手で下がるよう命じた。
「うん、目に力が戻ったね」
頷くオリヴィエに、チャーリーもやれやれと言った顔で安心したように、息をついた。
「はぁ〜…俺ら、とっくのとうに、目ぇ覚ましとったのに、いつまでたっても、オスカーだけ目ぇあけへんから、どないしよ思うたわー」
「オリヴィエ、チャーリー、俺は一体…」
「んなん、こっちの方が聞きたいわ!オスカー、どういうことやのん!何が何やら、わやや!西の神殿に着くや、いきなり、オスカーが、ラートリー様呼びつけて、ぎりぎり鍔迫り合いの丁々発止始めたんも驚きやったけど、二人で火花散らしてたかとおもうたら、オスカー、いきなり昏倒してまうし、で、俺等、あわくって、オスカーんとこ、駆け寄うてみたら、俺らも、目の前、真っ暗になってもうて…」
「気がついたら、私ら、この神殿のそれぞれの宮で寝かされてて。意識を失ってる夜の間に、連れ戻されてた…運ばれてたみたいだね…で、チャーリーと私は、ほぼ同時に意識が戻ったみたいで、それぞれ宮から飛び出したところでばったりさね。真っ先に昏倒したあんたのことが気になって、私ら二人とも、スーリヤの寝所に駆けつける処だったからね、で、たどり着いてみたら、あんた一人、寝たままで、全然目を覚ます気配ないし…もうすぐ、夜明けだっていうのに、どうしようかとおもったよ。あんたが、ラートリー様の逆鱗に触れて、永遠に目覚められない呪いでもかけられたんじゃないかって、ひやひやした…」
「……俺がスーリヤの名を拝命していなければ…夜の女神に拮抗できるほどの神でなければ…おまえの案じたとおりになっていたかもしれん。冗談ではなく…少なくともラートリー女神は、叶うなら、そうしてやりたかったことだろう…」
「ちょ、ちょっと、オスカー…それ、全然笑えない…」
「いや…俺が、そも、スーリヤでなければ、ラートリー女神も俺を取るに足らぬ存在として放っておいたか…すまん、心配をかけたな…」
「ほんまやで!オスカー、昨日から、こっち、俺ら、つんぼさじきで、わからんことだらけや!オスカーは、ウシャス様やラートリー様と、昔、何があってん?どういう関係なん?一体全体、何がどないなっとるんか、俺らにもわかるように、事情、説明してぇな!」
「うん、ラートリーさまとあんたのやり取りを傍から見てただけでも、オスカー、あんた、かなり、危ういっていうか、やっかいな立場にたたされているような気がしたんだけど…どういうことになってるのか、順を追って説明してほしい」
オスカーには、二人の友人が、心から自分を案じている気持がひしひしとわかった。
「オリヴィエ、そういえば、おまえはある程度のことは察してたみたいだったな…昨日の…儀式の前にもいいかけたが…それは…とても長い話になる…」
と、オスカーは口を開きかけた処で、唐突に口をつぐんだ。
不意に『友を巻き込んでいいのか?』という思いが、頭をもたげた所為だった。
友が『危うい立ち場』とみなす俺の現況…新米の太陽神が、最高位の天空神たちに真っ向から歯向かったように見えるこの状況は、ひとえに、俺がアンジェリークに抱いた恋情から発し、また、そこに帰着する。恋情とは極めて私的な…俺一個人の情動だ。俺は覚悟の上だからいい、アンジェリークへの想い以上に大切なものなどないから、ラートリー女神にどれほど疎まれようと、ヴァルナ神から大喝を食らおうと、なんでもない。
だが、こいつらの人生に、俺の恋情は、本来、何の関係もない。
俺の内実を打ち明け、俺の私的な事情に巻き込んでいいものではなかろう。
こいつら自身の神の資質も能力も申し分ないのにー俺の友、俺の仲間とみなされたがゆえに、高位神たちから煙たがられたり、粗略に扱われたりする恐れもある、そんな理不尽、俺には我慢ならない。
それに…こいつらの厚意は嬉しいが…打ち明けたとて、相談したとて、どうにかなる性質のものなのか…
何より、俺自身が、今おかれている状況に、自分はどう対応したいのか、それが定まっていない。
アンジェリークの幸福を考えるといっても、アンジェリーク自身が何を望んでいるのかも、まだ、よく、わからない。
ただーオスカーは考えるーヴァルナ神やラートリー女神のように「これがウシャスの幸せだ」と、彼女に何も知らさず、彼女の意向も確かめず、一方的に決め付けるようなことはしたくない。
今、そのことだけは、オスカーの心中で決まっていた。逆に言えば、はっきり断言できるのは、それだけだった。
「…いや、話しかけておいて、なんだが…すまん、今少し…俺に時間をくれないか。経緯を説明するだけでも、話が長くなりそうだ、というのもあるが、俺自身も、まだ、心が定まらないところがある。昨夕、初めて知ったこともあるから…自分がどうすべきか、何が、彼女にとっての幸せか、今は見定められない。心の中を整理したいので、少し、時間が欲しい…」
「ふむん…そうだね、どっちにしろ、あんたも、程なく、また、お勤めにでなくちゃならない刻限だしね…込み入った事情そうだし、説明するだけでも時間的に厳しいか…」
オリヴィエが、諦めたような吐息をついた。
「でも、近いうちに、全て話してもらう、いや、話させるよ、オスカー。自分としては気持の整理がつかない時も、人に話してるうちに、問題点がクリアになるってことも多いんだからね」
「…あ、ああ…」
歯切れの悪いオスカーの返答に、オリヴィエが、何かピンと来たらしく、ずいとオスカーの方に身を乗り出して、念をおすようにこう言った。
「あんた…自分1人で、どうにかしようなんて思ってないだろうね…」
「……」
「いい?オスカー、前もって言っておくけど、私らがあんたの問題に無関係だとおもったら大間違いだからね。同じ太陽神に叙された以上、私たちもあんたと一蓮托生なんだからさ。たとえ、私が、私はアンタと関わりないって言い張ったって、そんなこと誰が信じる?スーリヤとサヴィトリが無関係なワケないじゃんって、誰だって思うだろう?だから、あんたの事情は全部、話してもらうよ、それが、スジってもんじゃないか」
「せやせや、俺ら、もう、一心同体…は言い過ぎやもしれんけど、なんか、どっかで繋ごうてるの、いっつも感じるやん、なぁ?せやから、自分1人で、どうにかしぃひんとしてもアカンて…つか、無理やと思うで?だから、オスカー、約束やで?何がどうしてこういうことになったんか、時間のある時でええから、教えてな?一緒に太陽神になったのも、縁なんやし、縁は大事にせにゃー」
「う…む、繋がってるか……確かに、そう…だな……俺が昏倒したのは、俺自身が、何も考えずに力を使いすぎたせいだとおもうが…」
そして、弱りきったところを、ラートリー女神の夜の力に、がんじがらめに縛り上げられていた…と言う処だろう。ただ、夜明けが近づくにつれ、ラートリー女神の支配力は弱まっていくから、俺の意識は、つい先刻、女神の頚木から逃れーいや、しぶしぶ解放されたのか?−漸く目覚めることができたのだろうと思えた。オリヴィエとチャーリーは、元々、念話などで消耗していなかったから、余力があったはずだし、ラートリー女神が疎んじているのは、あくまで俺だから、精神の縛りもゆるくー俺より目覚めが早かったのは、その所為だろうと、オスカーは考えた。
「念話を操っていなかったおまえたちも俺を追う様に人事不省になったというのだから、確かに、それは、俺と、どこかで繋がっているからだろう…関係ないおまえたちを巻き込んじまってすまん…それを思うと、尚更、やはり、この件は俺の…」
「せやのうて!」
「関係なら、あるんだよ!あるって、いってんだろう?あんたねぇ…私ら、みくびるのも大概にしなよ?」
「俺ら、ナンも知らへんかったけど…最初は、何がなんだか、わからへんかったけど、今も、詳しいことはわからんけど、オスカーがずっと好いとったお方がウシャス様で、でも、ラートリー様たちは、それを歓迎してへんことくらいは…流石にそれくらいは、女神様たちとのやり取りで、わかっとるわ」
「代々スーリヤは、天空神としては異例に短命で…だから、天空神さまたちは、スーリヤはウシャスさまを預けるに値しないと烙印を押してるらしいこともね」
「でも、それって、多分、俺等もいっしょやん?俺等だって太陽神なんやから、しかも、数ある太陽神の中でも、俺等、スーリヤの両腕なんやから」
「そ、だから、あんたが力を失って天界を放逐される時は、私たちだけが留任されるとは、思えない」
「けど、おれら、そんなん聞いてないし、納得いかへんし、癪やん?スーリヤだけ、なんでカミサマにしては短命なのかも、ようわからんし、そういうもんだって一方的に言われて「へぇ、さいでっか」なんて、よう引き下がれんわ。ただ、詳しい事情しらんと、どないしたらええかもわからんやろ?せやから、俺らにも、ことの経緯を説明してぇな、いうてんのや。3人で考えたら、なんか、いい知恵も浮かぶやもしれんやん?」
「おまえたち…」
「私ら太陽神は運命共同体だってことが、昨晩、図らずも証明されちゃったからね。あんたが力使いすぎで昏倒すれば、私らも人事不省に陥るってわかっちゃたんだもん。あんたが、恋心に心身を焼き尽くして、太陽神に就任早々、自滅するのを、手をこまねいて見ているわけにはいかない。私らには、関係ありません、ってなワケにはいかないのさ。あんたが力を失えば、私らだって、天界からお役ゴメンで追放されちゃう可能性は高いんだからね、でも、私らは、私らの意思で、私らが思うだけ、この名誉在る仕事に就いていたい、だから、自分の権利は自分で守りたい、あんたのためじゃないから。変な気遣いや、気の回しすぎは無用だよ」
オリヴィエは忌々しげな顔つきで、オスカーを突き放したような横目でみやった。
「ああ…そういう言い方をしてくれる方が、俺も気が楽だ…ありがとう、オリ…サヴィトリ」
オスカーが目線を落として、静かに告げると、表情を強張らせているオリヴィエの頬に朱がさした。
「だから…あーもう、いいや、なんでも。とにかく、私らは運命共同体だってことは、ゆめゆめ忘れないでおいてよねってこと、そんだけ」
「うん、今は、それでええやん。どっちにしろ、オスカーは、スーリヤ様として、そろそろ神殿を出る頃合やろ」
その言葉に、オスカーは、ふと顔をあげた。神殿の中をひたひたと満たしていた夜の気配がー冴え冴えと美しいが冷んやりとした夜の気配がかなり色褪せ、替わりに、すがしくも艶やかな、輝く気が増していっているのがわかった。この上なく清明で燃え立つように美しい光の気がー昼日中は、まったく感じ取れなかったウシャスの…アンジェリークの気配が少しづつ大気の中に凝っているのを感じる、もうすぐ、彼女がここに、この神殿に降りたつ刻限なのだ。彼女は、もう、すぐそこまで、来ている…それは確信に近い予感だった。
そして、この予感にオスカーは、身震いした。
彼女が現れる。昨日と…数年前と…いや、宇宙開闢の折より変わらぬ可憐さ、美しさで。俺は、今朝もまた、その彼女の顔を間近に見られる、あのたおやかに愛らしい肢体を、この手にだける。
そう思うだけで…身中に甘く痺れるようなうずきが走る、悦び?慄き?に心が震える。
たとえ、それが瞬きする程の時間でも。いや…それが、瞬きする程の時間だから、殊更、心が震えるのか…。
「…ああ、行ってくる」
「では、つつがなく、お勤めをはたされんことを。栄光あるスーリヤよ」
二人の青年神が、声と動きを同調させて、恭しくオスカーに礼をする。その敬礼を従えるように、オスカーは、寝台からすっと立ち上がった。と、どこからともなく、そして、物音一つ立てずに数人の仙が現れ、オスカーの肩に白絹の長衣を着せた。
オスカーは、それが湯浴の装束だと知っていた。アンジェリークを娶るための潔斎、つまり禊で身を清めてから、オスカーはスーリヤの正装を身につけ、太陽の馬車に乗り込むのだ。アンジェリークをこの腕に抱く、そのために。
禊のための湯浴みをすませると、仙たちが、手際よく、オスカーの身にスーリヤの装束を身につけていく。長靴を履き終えると、オスカーは、決然と頭をあげて出立の間に向かった。
出立の間についてみると、丁度、何事もなかったかのような顔で、ラートリーがウシャスと手を合わせてすれ違っている処だった。オスカーの居る方に視線をちらとやることもなく、ラートリーの姿はたちまち蒼紫の霞のように薄れ、中空にかききえた。今から太陽の馬車が西の神殿に着くまでの間、彼女は夜闇の狭間にその身を置いて、しばしの休息を取るのだ。
が、オスカー自身も、ラートリーの様子を通りこして、食い入るように、ウシャス出立の様子を見守っていた。
アンジェリークは、オスカーの到着を気配で感じとっていたのだろう、紅色の牝馬を宥めあやしながら、時折、オスカーの立つ方に顔をむけてきた。花のような唇に、なんともいえず、優しく慕わしい笑みを浮かべて。
そして、いよいよ牝馬の背にまたがり、天空の道に踏み出すその瞬間、今一度、彼女は振り向いた。少し頼りなげに、人恋しげに瞳が揺れていた。一刻も早く、オスカーに迎えに来てと、訴えているようだった。
オスカーは、その、アンジェリークの表情に、確信した。
やはり、アンジェリークは「太陽神と暁紅の女神の婚姻」の形にまったく疑問を抱いていない、同時に、俺と毎朝顔をあわせ、笑みを交わし、ほんの刹那でも触れ合うことを純粋に喜びと感じてくれていることを。
オスカーは文字通り火のついたような焦燥にかられた。俺だって同じだ、一刻も早く、彼女をこの手に、と心は逸る。それが、瞬くほどの時間であっても、彼女をこの腕にだけること、しかも、彼女から望まれて…それを考えれば、たしかに、俺は、今までの太陽神に比して、考えられないほど幸福なのかもしれない、だから、これ以上のことを望むのは、強欲なのかもしれない…
と、オスカーの逡巡をよそに、やはり、何事もなかったのように、太陽の馬車がオスカーの眼前に引き出されてきた。
同時に、黄金の盆に神酒をなみなみと注いだ黄金の杯が差し出された。その杯を空にして返すのと入れ替えに、真紅の天鵞絨の台にのせられて、此度は火の鞭がオスカーに差し出される。
オスカーは、昨日の朝とはまた異なった感慨で、火の鞭を手にとり、太陽の馬車にのりこんだ。
アグネシカが、意気揚々と顔をあげ、オスカーが出立の合図を出すのを、待っている。
これからは、この一連の儀式が、毎日ー雨季を除きー寸分違わぬ手順で、繰り返されていくのだな、まさに千年一日の如く…と、オスカーは覚悟を新たにする。
儀式の内容は昨日と全く同じ…なすべきことは同じだが、今の俺は、もう、この儀式の意味も、どこまでが俺に許された権限なのか、その限界もしっている。己の精神力が続く限り、この朝を延々と繰り返すのだということも。
では、出立したくないかといえば、決してそうではない。無限ループのような儀式を為し続けていかねばならないとわかって、だからといって、太陽神の地位を早急に降りてしまいたいなどとも思わない。そんなことになったら、俺は、もう、アンジェリークに会えなくなる、彼女の顔を2度と見ることはなくなってしまうのだから…
オスカーは、全てがわかった今も、アンジェリークを追いたい、一瞬でもいいから、この手に抱き留めたいと、強く願っている自分を改めて感じていた。
オスカーが太陽の馬車に乗り込んだ途端、馬車の車輪部分が轟と燃え出す。
途端に、オスカーは、神酒を喫した時の倍か、それ以上に、四肢に力が漲りゆくのを感じる、同時に、意識は果てなく清明に澄み渡り、この世の隅々まで見通し見渡せる程に、視界と知覚が広がり行くのを感じた。
『これが太陽の力…俺が御すべきものであると同時に、まさに、俺に無限に供給される力…』
昨晩、ラートリーに言われた言葉が、オスカーの身に実感として染み入る。今、確かにオスカーは、自分の全能感を感じる。自惚れや驕りではなく、厳然たる事実として、文字通り、スーリヤとなった自分には、この世界の全てを隅々まで掌握するだけの知覚、影響を与える能力があると、意識せずとも、わかるのだ。太陽が共にある限り、たしかにスーリヤは全知全能の神であり、比喩ではなく「百神の王」である自分を、オスカーは寸分の疑いもなく自覚する。
昨日の朝は、アンジェリークを追うこと、自らが為す儀式の成就と、その結果何が起きるのかを見届けることで、頭が一杯で、その後は、この手にアンジェリークをしかと抱きとめながら、一瞬にして失ったことへの喪失感に打ちのめされ、この全能感を我が物として感じる余裕がなかった。
だが、今は、アンジェリークの姿をつぶさに見たい、そう思うだけで、天空の道をかなり先に進んでいるアンジェリークの姿を、その空間だけ切り取って拡大したように認識できるほどの知覚力がオスカーにはある。実際には、今はまだ、彼我にかなりの距離の隔てがあるはずのアンジェリークを、すぐ傍にいるかのようにオスカーは、瞬間だが、見てとることができるのだ。
ただし、この己の全能が昼日中のみであることも、オスカーは、今、いやというほど思い知っているーラートリー女神に思い知らされている。だから、手放しで、己の全能感に酔って耽溺することもないし、ましてや自惚れることなど、できようはずもない。スーリヤの全能は、あくまで、太陽の力という後ろ盾あってのもので、俺の実力そのものではないから。
が、一方でこう思うーもし、俺のような経験…夜の女神に己の無力さをとことん思い知らされるような機会もなく、己の全能があくまで日中という期間限定の、しかも、自分一人の力ではなく、太陽あってこそのものであることをはっきり認識していなければ…太陽神は限りなく傲慢になることもあろうと。その可能性が大きいことにオスカーは気づく。それほど、この全能感、透徹した視界と無限に広がった認識力に浸ることは心地よい。自らが全能であると無理なく思えるこの感覚は、最高の官能と見まごうばかりの快感であることは認めざるをえない。
だが…
自分は全知全能である筈なのに、実際、それだけの能力も権限もあるスーリヤなのに、一人ウシャスだけは自分の自由にならない、好きにできないことを、代々のスーリヤは、日々、否応なく思い知らされていくのだ。公的には「ウシャスはスーリヤのもの」といわれているからこそ尚更、実際には、何ひとつ己の意のままにならないウシャスへの渇望は募るばかりだろう。人は、入手が困難なものをこそ、より欲するという、度し難い心があるから。そして己の全能があくまで太陽の存在に裏打ちされていることを失念し、謙虚さを忘れた者ほど「ことが自分の思い通りに運ばないこと」に激しい苛立ちを感じ、それを大きなストレスとすることだろう。
それもまた、スーリヤが短命な理由ではないのか…オスカーは、そんな風に思う。
そんなオスカーの思惑を余所に、太陽の馬車は、粛々と天空の道を行く。馬たちの足並みは、落ち着いて揺ぎ無い。
オスカーの逸る心、揺れる心を、アグネシカが落ち着かせよう、宥めてようとしているかのようだ。
いや、オスカー自身、一刻も早くアンジェリークをこの手に抱きたい衝動と、彼女を追う時間をなるべく長く引き延ばし、彼女の姿をずっと眺めていたい心と、相反した気持がせめぎ合っていた。アグネシカは、そんなオスカーの揺れる心象を敏感に感じ取り、足並みをあえて抑えているのかもしれなかった。
一方で、アンジェリークはオスカーの到来を待ちわびているようだった。彼女が、ちらちらと後背を気にしている様子が、オスカーにはよくわかる。牝馬の背から一生懸命に身をのりだしているので、見ているこちらがハラハラしてしまうほどだ。だが、それ程までに、こちらを気にしてくれているのかと思うと、オスカーは、なんとも言えない幸福感と切なさで胸が一杯になる。
これだけでも、俺は、分不相応の果報者と言えるだろう。
歴代の太陽神たちは、半ば自分の責任とはいえ、こんな風にウシャスに待ち焦がれてもらったことなど、ないのだろうから。
そう考えた時、オスカーは、ふと『そういえば、アンジェリークに自ら話しかけてみようとした太陽神はいたのだろうか』と思った。
通常、火の眷属は念話の能力をもたず、肉声でのみ他者と会話する。だから、オスカーも、昨日ラートリーに話しかけてみるまで、精神で会話しようと試みたことはなかった。スーリヤは、出自は火の眷属だが、太陽神に任ぜられた時点で天空神としての能力もあわせ持つようになるから、他の天空神のように念話が使いこなせるようになっている筈だと思い、実際、試してみたらそうだった、というわけだ。ただ、昨晩、ラートリーに話しかけた時は、オスカー自身、念話を使いこなせる確信があったわけではなく、ほとんど、思いつきで試してみた、という方が正しかった。
その思いつきは、ラートリーに、個人的に、頭の中をかき回されるように大声で喚かれて閉口した経験があったことが大きい。
ヴァルナ・ミトラ神の前でスーリヤとなる誓詞を述べた時、頭の中に直接、唱えるべき誓詞の言葉を注ぎ込まれていたから、思念を受け取るというのは、どういう感覚かは、わかっていたが、それだけなら、オスカーは精神での会話を儀式の一環とみなし、思念を受けるのはともかく、自分から思念を発する能力が備わるという可能性に気づいていなかったかもしれない。しかし、ラートリーが1個人として、オスカーに精神で己が意思を伝えるその感覚を、直々に教えてくれていた経験があったからこそーその時は大層苦しかったがー「もしや、天空神は、音声より精神での会話を主体としているのではないか」とオスカーは思いつき、実際に、試してみたら「当り」だったのだ。
尤も、ラートリー女神に指摘されたとおり、念話に手馴れていないオスカーは、ラートリー1人に精神を志向させることができず、四方八方に思念を飛ばしていたようで、音声と精神との両方でラートリー女神とやり取りしていた所為もあって、その消耗も並大抵ではなく、僅かなやり取りで力尽きて昏倒してしまったのだが。
だが、高位の天空神は、精神での会話の方に重きを置くとしたら…それが当たり前の習慣や文化だとしたら…なのに、生まれが火の眷属である太陽神は、自分が念話を使いこなせることも、念話で、ウシャスに話しかけることも思いもよらなかったのだとしたら?だから、代々のスーリヤは、ウシャスと一切心を繋げようとしないと、思われてしまっていたなどという…そんな可能性はないだろうか?
まだ、天空の道上では彼我の距離は隔たっているままだ。が、オスカーは思い切ってアンジェリークに精神を集中して、声をかけてみた。
《アンジェリーク》
《!!!》
アンジェリークの身が、びくんと、雷に打たれたかのように震えたのが、遠目からでもはっきりわかった。
と、瞬くほどの間をおいて、オスカーの身に、体が震えるような衝撃が返ってきた。アンジェリークに向けて放った思念が、波紋となって反射し、己に戻ってきたかのようだった。
『なんだ?この衝撃は…』
と、思う間もなく、オスカーの頭の中に、この世で尤も愛らしく慕わしい声が響いた。
《…オスカー?今、私に声をかけてくれたのは、オスカーなの?オスカーでしょう?》
《アンジェリーク…俺の声が聞こえるのか?》
《ああ、やっぱり…ええ、はっきりと、オスカーの声が聞こえるわ、オスカーの…少し低い、甘くて優しい声が…私の名前を呼んでくれる声が…》
《そう…か、よかった…俺の声、聞こえるんだな…》
《ええ、オスカーは心でお話できるのね、ラートリーやヴァルナ様たちみたいに…びっくりしたわ。オスカーが心で話しかけてくれるなんて思ってもいなかったから…今まで、天空の道で、私に話しかけてきたスーリヤ様は1人もいらっしゃらなかったから…スーリヤ様は、心でのお話はできないんだと思ってた…なのに、オスカーはできるのね、すごいわ…》
やはり、とオスカーは思った。先ほど受けた衝撃は、アンジェリークの驚愕の思念だったのだろうと思いつつ。
《ああ、多分、君に話しかけるなんて…そんなことができるなんて、思いもしなかったんだろうな、歴代のスーリヤは…火の眷属は元々は念話の術を知らないから…自分が心で会話ができるなんて考えたことも、試してみようと思ったこともなかったんだろう。俺は君とラートリー女神が、心で会話しているその様子を見知っていいたし、俺自身、ラートリー女神から警句を頂戴していたからな、もしや、天空神の一員となった以上、俺にもできるかも…と思って試してみたんだ。これらの経験がなければ、心で会話する方法も、感覚もわからなかっただろうし、念話の存在すら、思いつかなかったかもしれない…》
《じゃ…火の眷属は元々は心でお話しない…できないから…今までの太陽神さまは、スーリヤになった後、ご自分が、心でお話できるようになったことをご存知なかったのかしら…?もしかしたら…》
《少なくとも、俺も誰かから教えられたことはないから、自分で気付かなければ、知らないままで終ることの方が多いかもしれんな…》
《そうね、私も、スーリヤ様とは『声』を使ってしかお話できないと思ってた…思いこんでたわ。だから、触れ合った瞬間にしか、お話できないし、でも、触れ合う時間は、本当に一瞬だから、実際には何もお話できたことなんてなかった…》
《触れ合わないと、話せない?》
《ええ、この天空の道は…いえ、ここに限らず天界は、上層部に行けば行くほど風の気が薄いの。風神さまは滅多に、こんな上空まではいらっしゃらないから。でも、声や音は、風にのらないと…風の気の助けがないと伝わりにくいから…だから、触れ合えるほど近くにいる時しか、私たち天空神は声を使っての会話はできないの》
《!…そういえば、昨日、俺がここで声を発してみた時も…自分の耳に聞こえた声は、頼りないほど微かだった。ほとんど聞こえなかったのは、単に、俺の声が小さかったからではなかったんだな…》
《音は風の気がないと、届かないもの…あ、もしかして…私たちには、当たり前のことだけど、オスカーは、これも知らされていなかった?》
《ああ。天界上層部では風の気が乏しくて、声が伝わりにくいから、天空神は、念話を主体にするんだな…漸く納得がいった。それに、精神での会話は、一瞬で、意図を伝えられる…たしかに効率的だ》
《そうなの、肉声だと、言いたいことを伝えるのに、驚くほど時間がかかるのを、私も知ってるわ…私も、太陽神様にお伝えしたいことがあっても、声で伝えるには、いつも、自分の時間がたりなくて、何もお伝えできなかったから…》
《君も太陽神に念話が通じるなんて、知らなかったんだ。太陽神から話しかけてくるものもいなかったんだろう?仕方ないことだ。君が気に病むことはない》
《ええ…それは、そうなのだけど…》
《それに、今までのスーリヤでは、念話の方法を知っていたとしても…君は、全ての神々の憧憬の的だから、君に話しかけたくとも、何を話しかけたらいいのか、わからなかったかもしれないしな…》
《…そうなの?…私、暁紅の女神に生まれついただけで…それだけなのに、どうして…そんな風に隔てを置かれてしまうの……》
《きっと…色々、誤解や、思い込みがあったんだろう…君は暁紅の女神、この世で最も清らかで美しい女神だから…そんな存在に声をかけるのは、誰しも、緊張するものさ》
《だから、スーリヤ様は、いつも、怖いような思いつめた瞳をなさっていたのかしら…あのね、オスカー、私に、何の気兼ねもなく話しかけてくれるのは、オスカーと知り合う前は、ずーっとずっーっと姉妹のラートリーと、ヴァルナ様、ミトラ様のお二方だけだったの。でも、並ぶ者無き二神さまも…今おもうと、あまり、多くのことを、お話にはならなかったわ…ラートリーもだけど…なんだか壊れ物みたいに…私を真綿で包みこむようで…私が、すぐに儚くなってしまう女神だからなのでしょうけど…私から何かお伺いすることがあっても「お前は何も気にしなくていいのだ」「我らにまかせておけ」って…それで終ってしまうことが多かったの。それは、私のことを、とても大事にしてくださっているからだって、わかるのだけど…》
《…ああ、そうだろうな…ヴァルナ様も、ラートリー女神も君のことを、本当に大事にしているのは…俺にもわかる…》
《そうなの、とてもありがたいことなの。でも、きっと、だから、私、知らないことで一杯なのかも…私、ついさっき、オスカーに聞いて、初めて知ったのよ、火の眷属は、普通は、心でお話しないから、太陽神になったご自分が心でお話できるって気づいてないかもなんて…もしかして、今までのスーリヤ様もそうだったのかもって…それなら、私、スーリヤ様を怖がったりして、申し訳なかったわ…私も、今の今まで…オスカーに話しかけてもらうまで、自分から、スーリヤ様に心で話しかけることも思いつきもしなかったのだもの…なんて、考えなしだったのかしら…数え切れないほどの年月、存在してきたのに…恥ずかしい…》
《いや、それは…さっきも言った通り、君が気にすることはない。今までのスーリヤが、君に話しかけようとも思わなかったのは事実なのだろうから…それはスーリヤの方が迂闊だったのだし、君が、自分を責める必要はない。歴代のスーリヤも、本心から、君と話がしたいと思っていれば、通じるかどうかはわからなくても、心の中で、君に声をかけていただろうし、そうすべきだったのだから……》
《そうなのかな…でも、だから…私に、優しく普通に話しかけてくれたのは、本当にオスカーが初めてだったのよ。オスカーは、火の泉におりた私が、咎めを受けたりしないか、心配して声をかけてくれた…迷わず私の手をとって、火の泉からあがらせてくれたわね…あの手の暖かさ、力強さ、今もはっきり覚えてる。あんな風に、ただ、心から私を案じて、真摯に私の手を引いてくれた人なんて、それまで誰もいなかったから…》
《アンジェリーク…》
《そして、スーリヤ様になっても、オスカーは、黙りこくって怖い目で私を見たりしない…今までどおり、優しく、普通に私に話しかけてくれる…本当に、凄く嬉しい…》
オスカーは、アンジェリークの言に、胸が切ない疼きで一杯になる。
だが、俺だとて、同じだったかもしれないのだ。
何かの巡りあわせで、アンジェリークと出会うことなく、何も知らずに、スーリヤになっていたら…。
めあわせの儀で、「こちらがそなたの花嫁となるウシャスだ」と紹介された彼女に、きっと、俺は一目で恋におちて…
でも、ウシャスは、この上なく高貴な女神だから、迂闊に触れることも恐れ多いと構えてしまうだろうし、実際、彼女が、ほんの僅かな時間しか現存できない存在であることを認識していれば、どうしたって、壊れ物に触れる時のような心持になっていただろう。そして、彼女に近づくほどに、恐る恐るな気持と、同時に、彼女は自分・スーリヤのものではないかという変な自負から、思いのまま素直に話しかけることなど、できなかったかもしれない。心で話しかけることなど、もとより、思いもよらず…。
そして、来る日も来る日も婚姻の儀だけを無限に繰り返しー繰り返させられー…歴代の太陽神は、即位してから、どれ位で、アンジェリークは、見せられるだけの、決して、この手で手折ることのできない花だと思い知らされ、諦めをもって己が運命をうけいれるのだろう…俺だとて、決して、ウシャスを我が物にできないことを重ねて思い知らされる日々、それでもウシャスを諦めきれない日々に疲れ果て、早々に全ての神力を使いはたし、諦念と絶望にまみれて、この天界を去っていたかもしれないのだ。
俺だとて、その1人であったかもしれないのだ。
そう思ううちに、アンジェリークがその背にのる牝馬が、間近にせまっていた。
《ああ…綺麗だ、君は、本当に…やはり、間近で実際に見る君が、一番…一際艶やかに美しい…》
《オスカー…私…変…》
《どうした?》
《オスカーに綺麗だって言われたら…なんだか、胸がとても熱くて…熱いもので一杯になって、息が苦しい…なのに、なぜだか嬉しいの…嬉しくてどうしていいか、わからない、そんな気持なの…》
《アンジェリーク…それは、君が俺のことを好きだからだ…》
《…でも、こんなの知らない…熱いもので胸が一杯になるような、息がつまりそうで苦しいほどの、この気持も『好き』という気持なの?私が知ってる『好き』と全然違う気がするの…》
《『好き』という気持が、深く大きいほど…胸も苦しくなるものなんだ、俺も…君を愛している…この世の誰よりも、何よりも…そう思うたびに、底知れぬ幸福と共に、胸の痛みを同じ程に覚えるから》
《好きだと、苦しいの?オスカーも、苦しいの?》
《ああ…でも、それは幸福な苦しさでもあるんだ、知らずとも生きていけるが、知れば、人生はより深みと充実を増す…少なくとも、俺はそう思う…そんな苦しさだ》
《オスカー…それなら、私もオスカーが好き…苦しいと感じるほどに好きよ。こういう気持を『愛している』っていうの?》
《ああ、愛している、俺も君を》
《オスカー…嬉しい…きて…私を抱きしめて…そして、また、あなたと唇を…》
《アンジェリークっ!…》
オスカーは、もう、完全に併走している牝馬に向けて、半ば無意識に腕を伸ばしていた。
アンジェリークが、大きく両腕を広げて、オスカーに抱きとめられる瞬間を待ちわびている。
太陽の熱気からアンジェリークの身を守る火の衣は、もう、ほとんどが千切れて飛び散り、その切れ端が空を一層鮮やかな紅に染める一方、アンジェリークは、透けるように清らかな裸身をオスカーの眼前に惜しげもなくさらしていた。
オスカーは、その裸身の完璧な美しさ、たわわに揺れる乳房と、その頂点に咲く薄紅色の蕾…それはくっきりと、オスカーの瞳を射るように立ち上がっていた…の可憐さに魂の全てを奪われた。
引き寄せられるように身をのりだし、アンジェリークの身体を、がっしと抱きしめる。すかさず、唇を触れ合わせる。蕩けるように柔らかな唇をむさぼり、芳しい吐息をのみこみ、荒々しく舌を差し入れて、彼女のそれを絡めとって、きつく吸った…そこまでが限界だった。
《暖かい…オスカーの唇が触れると…私の胸、熱くて、幸せなもので、はちきれてしまいそう…こんな、こんな幸せな気持、私、知らない…》
その思念がオスカーの脳裡を満たした瞬間、アンジェリークの肉体は、無数の光となって飛び散った。
己が腕の中で爆散するように無数の光の粒子となってしまったアンジェリーク、その空っぽの腕の中を、何も見えない空間をじっと見据えたまま、オスカーは、微動だにしなかった、いや、できなかった。
昨日ほどの、底なしの虚無感は、感じずに済んだのは、時間的には、極短い間だったが、念話のおかげで、アンジェリークとかなりの話はできたせいかもしれない…
これからも、念話を使えば、アンジェリークとは、思ったいたよりも、多くのことを語り合えるかもしれない。
口付けを交わすまでの、極、短い時間ではあっても…
その瞬間、確かに俺も幸福の絶頂なのだ、彼女を腕に抱き、唇を触れ合わせることのできる、その瞬間は…
そして、歴代の太陽神で、これほどの僥倖に恵まれた者は1人もいないと、わかっていてもだ…
これから、どれほどの長きに渡り、俺は、この一連の儀式を成し遂げられるだろう。
オスカーは、これから迎えるのであろう無限の朝を思うと、アンジェリークの顔を見られる、声をきける、キスができるその幸福と、でも、それ以上に触れ合うことは、決してできないのかという慨嘆とに、心が引き裂かれそうな気がした。
『俺は…今の、この心境を友にいえるだろうか。言ったとして、何か、変わるのだろうか…』
友には率直に相対したい。でも、この俺の無力感に巻き込むだけかもしれない、それもまた、オスカーの心を塞がずにはいなかった。それでも、彼らには事情を告げることが誠意だということ、逃げても何にもならないことを、オスカーは直感的に悟っていた。