『俺に、考えをまとめるための時間をくれ』友に、こう頼んでおいて正解だったと、オスカーは程なくして思い知ることになった。
太陽神スーリヤとして、忠実に職務にいそしみだすと、昼日中は、仕事以外に意識を振り分ける余裕がほとんどないと悟ったからだ。
就任した初日は、この腕に抱いた途端霧消してしまったアンジェリークへの喪失感に打ちのめされ、2日目は、己に課せられた運命への気構えを立て直すことに必死で、率直に言って、太陽神としての職務は、馬車を走らせる事以外は、何一つ果たしていなかった。それも、訓練されてきた体が、格別に意識せずとも、自動機械のように馬車を御していただけのことだ。高い士気を以って、職務に取り組んでいたとは、お世辞にもいえなかった。
元々、スーリヤの仕事は、ただ、太陽を天空の道に走らせればいいというものではない。
日々、天と空と地の三界を光で満たし、その光ですべてを見通し、友・サヴィトリとプーシャンの助けをかりて、地上全ての生物・無生物を問わず監督し、守護する。スーリヤに監督されているからこそ、正しい道を歩み、目的を成し遂げられると信じている下界の人間たちを支え守ってやらねばならない。地上の状況に応じて、激励・鼓舞の光が必要と思われる時はサヴィトリを遣わし、生き物たちの繁殖・成長著しい季節には、太陽光の中でも、万物育成の力を司るプーシャンを推すといった具合だ。
そして、スーリヤが監督する地上の様子は、その眼を通じてヴァルナ神に自動的に伝わっており、その情報を元に、ヴァルナ神は、自らの判断で人間に峻厳な罰を与えたり、一方で改悛したものには温情を示す。流行病の発生した地域などがあれば、様々な薬の知識を下界の人間に惜しみなく下賜するよう、スーリヤであるオスカーに命じてもくる。スーリヤの眼がくまなく地上を監督しているからこそ、ヴァルナ神にも過不足なく下界の情報が届くのであり、ヴァルナ神が、地上に、恩恵であれ厳罰であれ、地の人間の行いに応じた的確な処断を下せるのは、ひとえにスーリヤの働きによる。
このように、地上の万物をつつがない状態に保つために、スーリヤは、常に、意識して地上の様子をつぶさに見わたし、目配りせねばならない。
ただ、オスカーは、アンジェリークに会いたいがために、スーリヤの地位を目指していたから、どんな形であれ、アンジェリークと再会かなった、つまり、目的を果たした今は、太陽神としての責務にそれ程忠実である必要はない、と考えることもできた。
忠勤に励むどころか、反対に、決して手にできない褒賞を眼前でちらつかせて、太陽神の消耗を助長しているとしか思えない天界に反発・反抗して、果たす職務は最低限に留めー太陽の馬車を運行することだーそれ以外の仕事はあえて一切放棄するという道さえあった。
が、オスカーは、そうはしなかった。
むしろ、歴代の太陽神の中でも、これ以上はないほど模範的な太陽神になると、最初の数日間で、心に決めた。
地上の民が、日々の祭祀を通して、スーリヤに絶対の信頼と尊敬の念を抱いていることが、オスカーにも伝わってきており、その気持を疎かにできないと思ったこともある。
が、それと同じほどに強かったのが「天空の高位神に俺の首をすげかえるための尤もらしい理由を決して与えてはなるものか」という気概だった。天界の神々が、太陽神を次々と使い捨てにしてきたことを知ったからこその決意だった。
俺がアンジェリークの顔を拝することができるのは、自分がスーリヤの地位に就いているからこそだ。
また、天空神たちは、力の衰えた太陽神を何の躊躇いも容赦もなく切り捨て、次々と新しいスーリヤを召し上げてきたということは、ラートリー自身が断言している。それでなくとも、俺は、今までの太陽神の中では危険分子と認識されていることだろうから、そんな俺に「切捨て」もやむなしとみなされるような要因が見出されれば、天界は、即座に俺を廃して、新しいスーリヤにすげかえようとするだろう。ならば、わざわざ、今の地位から追い落とされるような原因を自ら提供する馬鹿がいるものか、そうオスカーは考えたのだ。むしろ、俺が模範的なスーリヤとして、職務に忠実に励んでいる限り、たとえラートリー女神やヴァルナ神が俺をどれほど疎ましく苦々しく思っていても、公的に俺をスーリヤの地位から追い落とすことはできない筈だと考えた。
弱みや、つけいる隙を与えてはならない。だからスーリヤとして職務に精励せんと、オスカーは、常に、地上の様子に細やかに眼を配り、注意をむけるよう努めた。太陽の光は、遍く、偏りなく地に満ちているか、光を見失い、道を失った生き物などはいないか等々、太陽神としての責務に忠実たらんとすれば、なすべきことはいくらでもあり、他の事柄に費やせる時間などほとんどなかった。つまり、自分自身の考えに深く没頭する時間など、捻出できなかった。
ただ、オスカー自身の考えがまとまる以前でも、サヴィトリ=オリヴィエとプーシャン=チャーリーからは、オスカーに話を聞かせてもらいたい旨を伝えられてはいたが、結局は、こちらも時間的な問題で困難だった。
というのも、オスカーが職務に忠実たらんとすれば、昼日中は、太陽亜神である二人も、オスカーの意図を汲んで様々な地域に派遣され、終日太陽の馬車を操るオスカーの名代として、太陽神としての職務をはたさねばならない。オスカーがスーリヤとして精勤すると心を決めた以上、日中の彼らにも、自由な時間は、ほとんどなかった。
かといって、日没後なら、彼らも職務を離れて自由になるから、存分に語らいができるかといえば、そう、ことは単純ではなかった。オスカーを筆頭に太陽神である3人は、太陽からの神力の供給断たれる夜間には、やはり、等しく力を失ってしまい、そう長くは、明晰な意識を保てないことに、程なく気づいたからだ。
ラートリーと思念で言い争いをした時ほど急激かつ酷く消耗することは、その後はなかったが、意図して神酒を多めに喫しても、オスカーは、夜半過ぎには薪の切れたかまどのように意識が闇に飲み込まれてしまうことを知った。やはり、スーリヤである限り、太陽からの力を得ずば神としての力は下位神か、下手をすると仙の域まで落ち込んでしまうようで、とてもではないが、夜通し清明な意識を保つのは不可能だと悟らざるをえなかった。日中の太陽神は、気を抜く暇などないから、夜間は、きちんと休息した方がよい、と体が勝手に判断して、意識を断ち切り、無理にでも眠りにつかせているような気さえ、オスカーはした。
それでも、夜明けの気配ーそれはウシャスの気配と同義だーが近づくと、オスカーは自ずと目覚めた。アンジェリークの気を感じ取るや、彼女にまみえる歓喜と期待に、身体が細胞レベルから覚醒する、そんな感じだった。そしてオスカーは太陽の馬車を走らせるための準備に赴くこととなる、毎日がその繰り返しとなっていった。
友と込み入った話をする時間のとれぬまま、日々は、決まりきった軌道を描いて、まわりはじめた。
ならば友と語りあう前に、俺は、今まであまり知らずにいたアンジェリークのことを、少しでも多く知りたい、なるべく多くの言葉を交わしたい、これから、自分がどうすべきか、考えるためにも。
ウシャスの出立を見守った後、太陽の馬車を駆ってアンジェリークをこの腕に捕らえるまでの時間を利用して、可能な限り、アンジェリークと、色々な話をしよう、そうオスカーは腹を括った。
実際、数年ぶりに再会したアンジェリークと、また、火の泉で過ごした夜のように、色々な話のできることは、オスカーにとって純粋な喜びであることも事実だった。
彼女にもっと触れたい、隙間のできぬほど思い切り抱きしめたい、飽くほどに口付け、体中にもキスを落とし、そして、彼女と分ち難くつながりたい、名実ともに夫婦といえる間柄になりたい…その気持は、抜きがたくあったが、努めて意識しないようにしー何せ、アンジェリークは、口付けも知らなかったほど初心なのだ、性急な求めは彼女を戸惑わせ、怯えさせるだけだろうーオスカーは、昔日の二人に戻ったように、失われた数年間を取り戻すように、アンジェリークとの語らいを持とうと決めた。彼女がウシャスと判る前は、尋ねようとも思わなかったこと、自分がスーリヤになったからこそ、聞いてみたいことは、いくらでもあったから。
その筆頭は、今までの日々、アンジェリークがどのように過ごしてきたのか、ヴァルナ・ミトラ神やラートリー女神に、どのように慈しまれ、守られてきたのかということだった。
が、返ってきた彼女の答えは、悠久の時を生きてきたにしては、とても単純なものだった。
《今と同じよ、オスカー。乾季の間は、空を夜明けの暁紅に染めて生き物たちを目覚めさせ、それから、陽光と交じり合ってこの世界一杯に広がるの。でも雨季が始まると夜明けの光を紡ぐ必要がなくなるから、その間はラートリーの星闇の衣に抱かれて眠る、ずーっと、その繰り返しだったわ》
《休息期に、ラートリー女神やヴァルナ神と色々語りあったりすることは、なかったのか?》
オスカーの脳裡に否定の思念が送られてくる。ついで明文化された思考が届いた。
《ええ、オスカーに出会う以前は、お勤めに関係ない時分に、身体を持つこと自体がほとんどなかったの。だから、オスカーと初めて会った夜、私、何故、自分が実体化して、火の泉に降りたのか、自分でも、よく、わからなかったの。きっと、オスカーの強い思念に惹かれて、導かれるように火の泉に下りたのね、って思い当たったのは、ずっと後のことだったけど…だから、楽しいおしゃべりなんて、オスカー以外の方とは、したこともないの。それでも、私、たまさか、ヴァルナ様たちと、何かしらお話をしようとすることもあったのよ、でも、ヴァルナ様に『そなたは、よくやっている、それでいい』と言われてしまうと、それきり、お話が続かなくなってしまうの…。おかしいわよね。オスカーとは、どれ程お話しても、話が途切れたり、続かないなんてこと、ないのに…》
《そうだな…》
執務という面から見れば『万物に目覚めを与える』という彼女の担う役目は掛け替えのない、この上なく崇高なものだ、本人としてもきちんと職務をまっとうしてきた「女神」としての日々は充実したものだったのだろう。この世界に希望と高揚をもたらす彼女の仕事は、やりがいもあるし、喜びをもって朝を迎える人々の顔を見る時の達成感は一入だろう。人間たちが、夜闇を払う彼女に最大の賛辞と感謝を捧げ、夜明けの光の美しさを言葉の限りに賞賛してきたのは無理からぬことだと、オスカーは素直に思う。
が、一方で、仕事以外のことに関しては、彼女が幼い子供のようなのも、わかる、とオスカーは思ってしまった。仕事以外の知識や経験が乏しく、特に、俗に言う「遊び」「気晴らし」というものは、ほとんど知らないようだ。対等の立場で遊ぶ友もいないし、スーリヤが恋人であると天則に定められている身であることを抜きにしても、東の神殿から天空の道上でしか実体化できない彼女は、他の神と知遇を得る機会もない。彼女の周囲には、強固なガードを誇る保護者しかいなかったのだ、他者との交流以前に、出会いがないから、友や恋人というものが存在しない、存在したタメシがないのだと、言葉を交わすごとに、オスカーは確信していった。彼女の知性と感情の発達が奇妙に均衡を欠いているのは、このせいではないかとも思い当たった。
そういえば、火の地にいた時、アンジェリークは、いつも、学び舎で何があった、友人達とこんな遊びをしたという俺の他愛無い話を熱心に聞き入ってくれた。それは、遊びも友達も、彼女にとっては未知で珍しいもの、望んでも得られないものだったからに違いない。
だからだろう、アンジェリークは、オスカーがスーリヤとなって再会するまでにおきた出来事も、熱心にオスカーに聞きたがった。何日も何日も、繰り返し。
オスカーは最初、不思議に思ったものだ。
《地味な訓練の繰り返しばかりの日々ばかりだったが…こんな話でも楽しいか?》
《ええ、だって、何もかも、私は、知らないことばかりなのだもの…オスカーがしてくれるお話は、どれもこれも興味深いことばかりなんですもの》
はにかみながら、アンジェリークが答える。
《昔、オスカーが火の地にいた時から、私、オスカーのお話を聞くのが大好きだったでしょう?お友達って、最初はどんなものかさえも、わからなかったけど、でも、オスカーのお話を聞いているうちに、お友達て、どんなものか、なんとなくだけど、わかっていったわ。一緒に学んだり、笑い合ったり、ふざけあったりして遊ぶって、とっても楽しいことなんだなってことも、少しづつわかっていったの。お友達のことを話すオスカーは、とても幸せそうだったし、時折聞かせてもらったケンカ?のお話も、仲直りのお話も、私にはあこがれだった…気持のぶつかり合いは、理解したい、理解してほしい気持のすれ違いや、良かれと思う気持の勢いがありすぎての勇み足のせいだったりするっていうのも、オスカーのお話から、わかるようになったし…それに、そんな、激しい心のやり取り自体、私は誰ともしたことがないから…》
《そうか…君には、悪ふざけしたり、悪態をつきあう悪友なんて…たしかにいないものな》
君は、誰からも常に憧れを以って見つめられ、最大限の賛辞を捧げられ、崇拝されてはいても…祀り上げられ、見上げられるばかり、さもなくば、反対に、最高神たちからは、子供のようにあやされ、庇護される存在で…どちらにしろ、対等の目線で物事を語り合えるような間柄の存在がないのだからな…
《悪友?悪いお友達?って何?一緒に悪戯をするようなお友達のこと?》
《はは、そういうこともあるが…互いに悪意のない冗談とか悪戯をしかけあえる仲という方が近いかな…それだけお互い遠慮や気兼ねがない間柄ってことなんだ、だから、そいつらは、自分にとって1番痛いことも歯に衣着せず言ってくるし、1番有用なことを率直に言ってくれる友達でもある、決して言葉の意味どおり「悪い」ってことじゃないんだ》
《???》
《ふ…あいつらを君に紹介したい…いや、あいつらに君を紹介してやりたい、かな…奴らも君と一度話したら、きっと、一目で君の虜になってしまうだろうが…》
《私も会ってみたい、オスカーのお友達と…オスカーは、お友達のことが、とても好きなのが、わかるんですもの。お友達のことを話すときのオスカーは、地上にいた時も幸せそうだったけど、今は、もっと、嬉しそうで楽しそうなんですもの。きらきら、生き生きしてて、眩しいくらい…今のお友達が、特別大切なお友達なんだろうな、って私にもわかるわ》
《ああ、あいつらに会えて、俺は天界に召されて良かったと素直に思ったな。火の地にいたのでは、会えなかっただろう、俺とは異質な、でも、対等の存在だったから…俺は、やつらから、たくさんのことを教わった。とても、感謝している。でも…》
《でも?》
《でも、あいつらへの親しみと、君への「好き」な気持とは、意味はまったく違う…》
《?》
《アンジェリーク…俺は、君とこうして話すのが楽しい》
《ええ、私もよ、オスカーとおしゃべりできるのが、楽しくて、嬉しくて仕方ないの。今は、毎日、朝が来るのが楽しみで仕方ないのよ。東の神殿に降り立つと、今日も、オスカーに会える、あともう少しでオスカーとお話できるって思うと、お仕事の刻限がくるのが、待ちどうしくて…これも、きっとオスカーが、お話で聞くばかりだった『お友達』のように、私に接してくれるてるからだと思うの》
《ああ、俺も…俺たちは、何でも語り合える、語り合うこと自体が楽しい、ずっと、こんな風に仲睦まじく過ごしていけたら…そう思ってる。君と一緒に過ごすこの時間こそが「幸せ」だと…でも…》
《でも…?》
《以前にも言ったが…一方で君を思うと、胸が締め付けられるように苦しい時がある。こんな苦しさを感じるのは君にだけだ、余りに愛しくて苦しい程の思いが募るのは君に対してだけだ…俺は、君に触れたい、抱きしめたい、口付けたいと思う。君だけだ…これは『友達』には…いや、他の誰に対しても抱かない感情だ、アンジェリーク、君にだけなんだ…》
《…そういえば、私も、苦しく感じるのは、オスカーのことを考える時だけみたい…オスカーに会えずにいた時、オスカーの声や笑顔を思い出すと、胸が…なんだか、息が上手くできないみたいに、胸が重苦しい時があったわ…オスカーが、前に教えてくれたわね、苦しくなるほど好きな時は『愛している』というのでしょう?じゃあ、それは、お友達を『好き』と思う気持とは、違うの?ね?》
《そうだな…俺の、君ともっと近しくなりたい、抱きしめたい、密に触れ合いたいと思う、この気持は『恋』だ。友達に抱く好意は友情というが、それとは違う。会いたくて、声が聞きたくて、苦しいほどで…そして会えたら、きりのないほど抱きしめたいと思う、そう感じるのは君にだけだし、そんな気持を『恋』という…俺はそう、思っている》
《会えないと苦しくなるほど好きな気持を「恋」というの?私、正直、まだ、よく、わからない。でも…私も、オスカーに抱き留めてもらうと嬉しいわ。今まで、どのスーリヤ様に捉えられても、嬉しいと思ったことなんてなかったのに…なるべく長く抱いていて欲しいと思うほどよ。そのせいか、他のスーリヤ様とは、腕に触れられた瞬間に、もう光に還っていたような気がする…オスカーと触れ合えるほどには、長く体がもたなかったような気がするの…》
《俺と触れ合う時間は…そうか…長いほうなのか…》
《ええ、だってオスカーの腕が、私を包みこむように抱いてくれると、なんだか、とっても嬉しくなるんですもの。オスカーと唇を重ねる瞬間は、心臓が破裂しそうにドキドキして怖いくらい、なのに、幸せな気持で身体が一杯に満たされるようにもなるの…とても不思議…》
《アンジェリーク…》
《ああ、もう、こんなに近くまで来てくれていたのね…オスカーとお話してると、いつも、あっという間に、時間が経ってしまうみたい…》
《俺もだ、アンジェリーク…毎朝のように会えるといっても、君と語り合う時間は、あまりに短い、もっと、俺は君と一緒にいたい…もっと長く…君に触れていたい…》
《ああ、私もよ、オスカー…でも…もう…私の体、やっぱり、そう長くはもたないみたい…だから、きて、オスカー…早く、私が、消えてしまう前に力一杯抱きしめて…口付けて…》
《ああ…願わくば、いつか、君も俺と同じように…》
《なぁに?オスカー…》
《いや、なんでもない…俺は君をこの手に抱けて幸せだ…》
この言葉自体に偽りはない。ただ、俺はもっと欲が深くて…君に再会できればいいと思ってたことはウソじゃない、君が俺を覚えていてくれたら、それだけでも嬉しいと、期待した。そうしたら、君は、童女のような清らかな心で、俺を好いていてくれて…俺との語らいが嬉しく楽しいと、喜んでくれている。俺は、それをとてつもない幸福だと思うのに…それだけじゃ足りないなんて思うのは、贅沢だとも思うのに…
そう思いながら、オスカーはアンジェリークを捉え、しっかと抱きしめる。柔らかな唇を夢中で吸う一方で、オスカーは心のどこかで冷静にカウントを数えている自分に気づく、そして、10数えるかどうかという処で、彼女はその身を光に還して遍く空に散っていく。
会話の内容は、日により、少しづつ異なれど、概ね、こんな朝を二人は過ごすようになっていた。
こんな日々を繰り返すうちに、オスカーが太陽神になってから最初の雨季が訪れた。
霞のような輿を、風神ヴァーユの率いるルドラ神群が恭しく担いで雨神パルジャニヤを天空にお連れしたのだ。
雨神は、これから数カ月の間、天空一面に雨雲を敷き詰めて、それを己が宮とし、地上に恵みの雨を降らせる。雨神が司る雲は、そのまま彼自身の住まいでもあるため、暮らしに不都合無きよう、雲自体がほんのりと発光している。そのため、太陽の馬車が天空を走らずとも、地上が暗闇に閉ざされることはない。
先触れで、雨神の到来を知らされていたオスカーは、輿が到着するや制空権をすんなりと雨神に渡した。雨季の間、東の神殿に設えられている己が宮にオスカーは蟄居することとなる。
雨季には、アンジェリークも実体化して、宮殿でその身を休めたりすることはないのか…と一縷の望みを抱いていたのだが、意識を四方に飛ばしても、アンジェリークの気は大中のどこにも感じられなかった。恐らく、ラートリーが己が身のうちに抱え込むように抱いて、彼女に深い眠りを与えているのだろう。彼女に会えない以上、天空の道に固執するいわれはなかった。
それに加え、オスカーはどうにかして、友と話しあえるまとまった時間を欲していたので、雨季の到来がありがたくもあった。雨季の間、太陽神は格別することがない、つまり、雨季が太陽神の休暇であり休息期であったから。
これで、漸く、友に、これまでの経緯を説明できる。
オリヴィエとチャーリーには、予め「話したいことがある」と思念で伝えておいた。
オリヴィエとチャーリーは、ほぼ同時刻にオスカーの宮に姿を現した。この時を待ちかねていたようだった。
オスカーは、この宮の管理をしている仙に神酒ソーマを瓶で持ってきてくれるようにと頼んで下がらせた、と、やにわに、二人は口々にこういった。
「さ、オスカー、何もかもあらいざらい話してもらおうか」
「女神様との関係を最初から、順をおってな」
今更隠し立てする気はなかったのでー彼らに何らかの協力を求めるかどうかは別にして、だーオスカーは、幼き日の火の泉でのアンジェリークとの出会い、そして、少年期、彼女と不定期に夜の逢瀬を繰り返したこと、火の力を御しかねて苦しんでいた自分が、彼女との逢瀬を重ねるうちに、彼女の有用なアドバイスと励ましのおかげで、力の制御法を身につけられたこと、制御を身につけたことで、火の力自体も著しく成長し、ために天界に招聘されると決まったこと、そして、招聘が決まった時に初めて、アンジェリークが女神ウシャスであったと知ったこと、それも、その時に夜の女神ラートリーと一悶着あったからこそ、彼女がウシャスだと判明したのだということを、ざっと語った。
「あとは、おまえたちも知ってのとおりだ、天界に来た俺は、高位の神ならなんでもいい訳じゃなく…とにかくもう一度、アンジェリークに会いたい、それだけの気持で、ひたすらに太陽神を目指して精進し、幸いにもその地位につけ、そして、今にいたる、というわけだ。アンジェリーク…ウシャスなくして今の俺はなかった、こんなにも誰かを深く想うこともなかったろうし、その想い故に俺はここまで来た…来れたんだ」
「…正直、たまげた。なんか、わけありやとは思うとったけど、オスカーが、ウシャス様とそないに昔から知りおうてたとはな…」
「でも、おかげで、全て納得いったよ。オスカーがスーリヤに固執してたワケも、聖娼にのめりこまなかったワケも、あんたの思い人がウシャス様だったなら、無理もないというか、当然というか…その耳飾からとんでもなく高雅な気を感じた時から、あんたの思い人は、かなり高貴な女神なんじゃないかとは思ってたけど、まさかよりによって本当にウシャス様だったとはね…しかも、あんたの一方通行かと思いきや、そんなに深い結びつきがあったとは…」
「よしてくれ。俺が、彼女と真の意味で深い繋がりを持てる見込みなど、ありそうもないことは…もう、おまえたちも察しているだろう?もっとも、俺も学徒の時分は、スーリヤとウシャスの関係が、名目上のもの、夫婦といっても名ばかりのものとは、知りようもなかったがな…いや、薄々危ぶんでいたものの、気づかないふりをしていただけかもしれんが…」
オスカーの皮肉気な自嘲に、オリヴィエとチャーリーが息を飲んだ。一瞬、きまずい沈黙がおりた。
オスカーは、ふぅっ…と息をついて、頭(かぶり)を振った。
「すまん、こんな愚痴めいたことをいわれても、お前らも困るだけだよな。まったく、我ながら覚悟が足りない…」
オスカーは、意識して気持を切り替えようとしたのか、しゃんと頭をあげ、二人の友を真っ直ぐに見据えると、しっかりとした口調でこう言った
「今の話でわかったと思うが、俺と天空神たちの間に起きた軋轢は、ひとえに俺の恋情という極めて私的な感情による。だから、正直、今も、おまえたちを巻き込むことは本意ではないとも思っている」
「…んーと、じゃさ、一つ聞いておきたいんだけど、オスカー、もし、最初から、ウシャス様とは実際には結ばれないって、わかってたら、あんた、どうしてた?太陽神を目指さなかった?」
「それは…いや、はっきりわかっていても、俺は太陽神を目指していたと思う。どうしても、彼女ともう一度会いたかった。会って、言葉を交わしたかった。俺は、それしか考えてなかったんだ。彼女から「太陽神を目指すのが、俺にとって幸福かどうか、わからない」と警告もされていたんだ。それでも、スーリヤにならない限り、彼女とは2度と会えないということだけは絶対の真実だったから、俺はスーリヤになるしかなかった。それくらい、俺は、彼女に会いたかった…彼女は、俺の目指す高邁なもの、全ての象徴だったから…今の俺があるのは、全て彼女のおかげだといっても過言ではないから…」
「そっか…」
「事実、スーリヤになる前は、彼女にもう一度会えるなら、俺は何を投げ打ってもいいと思っていた。もっとも、いざとなったら、このざまだから、えらそうなことは言えんが…ただ、スーリヤとなり、アンジェリークに会ってみて、初めてわかったことがあまりに多く、今の俺は、自分が何をどうすべきかが見出せない、歩き出したいが、どこに向かえばいいのかわからない、そんな心境なんだ。スーリヤが名目上の夫と知るまでは、俺は、彼女と限られた時間であっても、その中で、精一杯…俺のありったけで彼女を愛し大切にして、仲睦まじい夫婦でいられたら…そんな夢のようなことを考えていたから…」
「でも……ラートリーさまの言うとおりなら…」
「ああ、実際、彼女は、夫婦の関係どころか、男女の情のなんたるかもしらなかった。悠久に近い歳月、高位神たちから強固に守られて無垢な童女の心を保ち続け…一方、女神としては最古参の経験があり、高い見識と深い洞察を持つ聡明極まる女性であるのも事実なんだ。そして、彼女を無垢に保ってきた天界の意思を知って、俺は、今、自分が、どうすればいいのか、なおのこと、わからなくなってる。彼女にもう一度会いたいという俺の願い自体は叶ったのだし、ラートリー女神がいうように、俺は、彼女を毎朝、間近に見られ、この腕にだける。念話が通じるとわかったので、短い時間ではあっても、色々な話しもできる。何より、彼女は、俺と朝、会うことを心待ちにしてくれている。俺が語る他愛のない話を、心から楽しみにしてくれているんだ。彼女には庇護者と崇拝者はいても、ふざけて一緒に遊んだり、冗談をいいあえるような友達といえる存在が身近にいなかったらしいから…友達とはどんなものかも、俺の話で、初めて知ったと言っていたくらいなんだ…だから、俺がお前たちの話をすると、彼女は、とても楽しそうなんだ。そして、彼女が嬉しそうに瞳を輝かせている様を見ていると、これで十分ではないか…そんな気もするんだ。彼女と共に過ごせる時間が、限られたものであることも、承知していたつもりだった。その限られた時間の中で、既に、俺は、今までの太陽神がどれほど望んでも得られなかった…恵まれた場所にいるのは確かなんだから、そして、彼女が今、幸せそうなら、これ以上、何かを望むのは望みすぎではないか、この満たされない思いは、俺の我侭ではないのかという気持もあって、正直、迷っている…」
「でもさ、あんたが、そうしてウシャス様に焦がれ続けたまま、子供のような恋を育んだとしても、結局、あんたの男としての思いは遂げられないんだし、遅かれ早かれ、いつか、あんたは天界を去るわけで、そうしたら、またも、ウシャス様は振り出しに戻る、になっちまわないかい?それこそ、天界が軽侮している「ウシャスの心を微塵も汲み取ろうとせず、情欲だけをウシャスに投げつけて怯えさせるばかりの太陽神」に、あんたは、取って代わられちゃうんだよ?それでいいの?」
「っ…」
「せやな、そんなことになったら、オスカーが気の毒なのは当然として、ウシャスさまも、なんか、かわいそなってまうな。俺等なんかには、想像でけへんような歳月、友情も恋も知らずに、ただ、温室の花みたく守られて、年を重ねてきただけやなんてなぁ。今、オスカーから色々話を聞くのが嬉しいやなんて、なんかもう不憫でたまらんわ。でも、オスカーがスーリヤの地位から退いてもうたら、次のスーリヤが、オスカーみたくウシャス様に接してあげるとは限らんやん、したら、ウシャス様、また、寂しい思いするんちゃう?」
「それは…」
「大体、ウシャス様は、なんておっしゃってるのさ、オスカー。それだけ楽しそうってんなら、他のスーリヤに代替わりするより、いつまでもオスカーがスーリヤでいてくれたら…って思ってるんじゃないの?」
「はっきり、聞いたことはないが…俺ともっと長くいられたら…とは言ってもらえてる…」
「なら、やっぱ、オスカーは、なるべく、その在位を長くする方便、考えたほうがええと思うな、俺は。それ、すなわち、ウシャス様の幸せにも通じるんちゃう?となったら、オスカーは、男として、自分の恋をまっとうしたほうがええんちゃうかなー?」
「が、そうしたくとも、その方法が、わからない。俺が抱いて10数えるかそこらで、彼女の体は光に還ってしまうんだぜ?」
「うーん…」
「スーリヤが神として異様に短命なのは、ウシャスへの叶わぬ想いに己が神力を燃やし尽くしてしまうから…というのは、多分、間違いない、だから理屈からいえば、俺が恋を成就させれば、スーリヤとして安定する可能性は高いが…それはあくまで可能性であって、確定じゃない。どの程度、在位を長期化できるのかも、定かではない以上…やはり、あまり深入りしないほうがいいのか…と考えてしまう自分もいるんだ。もちろん、自分かわいさからじゃないぜ。ラートリー女神のいうことももっともだと。結局、俺が早晩天界から失せてしまうなら…彼女は男女の情など知らないまま…無垢でいたいけなままでいさせてあげたほうがいいんじゃないだろうかとも、考える自分がいるのも事実なんだ…」
「でも、どう言い繕おうと、あんたが、遅かれ早かれ、天界からぽい捨てされる運命だってことに、かわりはないじゃん。ウシャス様会いたさから、あんたがスーリヤとして精勤するのはあんたの自由だけど、それって、ウシャス様への恋心を利用されてるだけともいえるわけだし…あんたが、ウシャス様を熱く恋うれば恋うるほど、早々と力を燃え尽きさせてしまう恐れは高くなるだろう?」
「けど、天界は、それ、わかってて…意図してやってんのやろか?スーリヤのウシャス様への恋心利用して、太陽の力を目一杯引き出させた挙句…実力以上に消耗せざるをえんような状況においた挙句にポイやなんて…そんな、馬の鼻先に人参ぶら下げて潰れるまで走らせるよなえげつない真似…やっぱ、俺、よう好かん」
「ていうより、完全に当て馬だよね、代々のスーリヤってさ…話し聞いてると、この世で最も綺麗な女神様の半裸身をずーっと見せ付けられて、発情させられるだけさせられて、でも、絶対交尾させてはもらえないなんて、当て馬そのものじゃん。そりゃ、頭もおかしくなるって。なのに、あんた、それでいいわけ?天界の思惑にうまうまと乗っちゃったら、悔しくないの?」
「俺は…自分のことは、二の次三の次でいいんだ、俺にとって大切なのは、彼女にとって何が1番幸せなのかってことだけなんだ…でも、その答えが…はっきり、これと断言できない。彼女は、俺の話を、とても楽しそうに聞いてくれる。おまえたちと過ごした学徒時代のことを、いくらでも聞きたがる。彼女が幸せなら、俺は、話なんていくらでもしてやる。そして、俺が抱きしめることは、彼女も欲してくれているが、それ以上に深い繋がりを求めているわけじゃないから…」
「そら、そやろなー。なんせ、キスも知らへん純情無垢な乙女なんやもんなぁ。知りもせぇへんこと、したいと思うわけないかもな」
「だから…結局は、今のままの状態を続けるしかないか、とも思ってしまう。実際、今は他にできることがない。彼女も、ラートリー女神の干渉で、夜間には体をもてないし…」
「ああ、ラートリーさまって、ほんま、夜は無敵やな、真夜中過ぎると、なんか、足元から見えへんもんが、じわじわっと這い上がってきて、気づいたらがんじがらめで動けんようになっとって、そんでもって意識もブラックアウトやもんな。あれ、気色悪いわー。俺たち太陽神って、ほんま、夜はカタナシやちゅーのを日々かみ締めさせられとったわ。でも、雨季は、ラートリー様の力も弱まるみたいやな…夜空も雨神の雲で覆われるからなんかなぁ」
「いや…雨季の間は、太陽から力の補給がされないから、どうせ、大したことはできないと高をくくられて、放っておかれてるだけかもよ」
「実際、何をどないしたらええか、よう、わからんもんなぁ…」
「夜には、ラートリー支配の元、俺たちは無力化され、彼女は実体化できない、一方、日中の俺たちはほぼ万能だが、ウシャスが強力な太陽光に負けてしまうので、長くは実体化できない…」
「たしかに、この状態で恋を成就したいといっても…ねぇ…」
と、3人が一様に黙り込んでしまった、その時だった。
「若いものが雁首そろえて、深刻そうに何の相談だ?」
突如、背後から割って入ってきた声に3人は、いっせいに振りむいた。
「ソーマさま!?何故、こちらに…」
「君たちご所望の神酒をお持ちしただけだ」
そういうと、ソーマは、人の良さ気な笑みをたたえて、酒の瓶を卓の上に置いた。
「俺のブレンドを気にいってくれたらしいのが、嬉しくてな、陽気な宴会をやっているようなら、俺も寄せてもらって、若人と親交を深めようと思ってたんだが…」
「いや、まさか、ソーマさまご自身が神酒を持っていらっしゃるとは、思いもよらず…」
「あ、よう気が回りませんと、すんまへん、どうぞ、こちらにおかけになってください」
「いや、どうも、そんな雰囲気ではなさそうだし、俺はさっさと退散するから、君たちで、好きなだけ飲りたまえ、お替わりは遠慮なく申し付けてくれていいからな」
そういうと、瓶だけおいて立ち去ろうとしたソーマ神は、ふと、何か思いついたように、オスカーの方に向き直って、こう付け加えた。
「ふむ…しっかりとした眼をしている。若きスーリヤよ、今は、必要ないかもしれんが、もし、この神酒では弱いと感じたら…長い雨季に無聊を持て余して、思い切り酔いたいと思った時は、遠慮なく、その旨申し出てくれ。雨季の間中、夢の狭間にいられるような神酒の調合も俺には可能だ、覚えておくといい、そのうち、そんな酒を飲みたいと思う時も来るかもしれんからな…」
「いや…俺は…」
オスカーは、何故、ソーマ神が、こんなことを言いだしたのか、その理由がわからず、なんと返答していいか、口ごもった。
たしかに、これは俺には初めての雨季で長期の休みだ、が、その休みに、わざわざ、正体を失うほど飲んだくれたいなんて思わない、考えなくちゃならないことが、山ほどあるのだから。それとも、今までの太陽神は、乾季に働きづめだった反動で、急に暇になると、何をしていいかわからず、無聊を持て余して、酔いつぶれるよりほかに、することがなくなるのだろうか…
と、ここまで考えて、オスカーは「あっ…」と、あることに思いあたった。真剣な面持ちで、ソーマ神に向き直った。
「ソーマ様、失礼ですが、一つ、お伺いしたいことがございます」
「そう堅苦しくならんでくれ、俺と君とは兄弟神と言っただろう?で、何が聞きたいんだ?」
「雨季中、正体をなくすほどに酔えるような調合の神酒をわざわざ用意してくださる、しかも、いつでも随意に…ということは…今までの太陽神が、それを欲した、いや、欲さざるをえなかったということですか?雨季の期間が苦痛でたまらない、もしくは、雨季には、心にどうしようもなく憂さや不満が募り、荒れて、神酒に溺れずにはいられない…。ソーマさまは、そんな風に荒れずにはいられない太陽神を、多く、ご覧になっていらしたのではございませんか…?だからこその先ほどのお言葉なのでは、ありませんか?」
「…」
月神にして神酒の神ソーマの温厚そうな表情は、一転して、思慮深く、些か鋭く厳しいものとなった、しかし、その瞳には、押さえきれぬ好奇心のきらめきもまた、同様に、見て取れた。
「どうか、お答えになってはいただけませんか、ソーマさま、歴代のスーリヤは、強いソーマに溺れ、浮世の憂さを晴らさずにはいられなかった、いや、もしかしたら、神酒に酔って暴れだしたりすることもあったかのか…ソーマさまは、俺たちにそんな兆候がないか、監視に…様子を見にいらしたのではないですか?だからこそ、御自ら、わざわざ、神酒をお持ちになられたのでは…」
「オスカー!あんた、一体、何言い出すの?!」
オリヴィエがぎょっとしたように、オスカーの顔とソーマ神の顔とを交互に見やった。