情報量においても、その気概や人間性においても、非常に頼りになる月神ソーマが、オスカーに全面的に協力すると、言ってくれた。それは大層心強いことではあったが、だからといって、昨日と今日で、事態が激変した、というわけではなかった。
というのも、結局、オスカーの初めての雨季は、1度もウシャスとまみえること叶わず終ったからだ。ラートリーの彼女への拘束は、いまだ揺ぎ無いようだった。協力を約束してくれたソーマ神からも、美味な神酒は途切れなく届いたもののー往々にして、本人も一緒にー有益な情報は何ももたらされなかった。
オスカーは神力を損なわないよう、友人たちと神酒をきちんと喫する以外、特にすることもなく、雨季をやり過ごしていった。
そして、漸く、待ちに待った雨季の明けがやってきた。
新たな乾季を向かえ、オスカーは考える。
どちらにしろ、当面の間、自分は、乾季の払暁の僅かな時間に、アンジェリークと語り合う以外、できることは何もなさそうだ、と。
ただ、その刻限に臨む、己の気構えは、はっきり変わった。
今までは、アンジェリークと語り合えるなら、何でも良かった。求められるままに話題を供し、楽しく語り合えればそれだけでよかった。アンジェリークが喜んでくれることが、何より大事だと思っていたから、自分が彼女の喜ぶ話題を提供できることは、むしろ、オスカーにとっても喜びだった。
が、その一方で、俺は、自分を誤魔化していたのではないかと、オスカーは思う。
あまりにも無垢なアンジェリークに、自らの恋心をどこまで打ち明けていいのか、オスカーはずっと、迷っていた。
『好きだ』と好意を伝えるまではいい、だが、自分が胸に抱えている激情、彼女の身も心も欲する熱い思いを知ったら、彼女が怯えはしまいか、と心の片隅で案じてもいた。実際、彼女は、ぎらつく欲情を己に投げかけてくる歴代の太陽神に、漠然と怯えていたことを知っていたから、尚更にその懸念は強かった。
それに、恋をすることは、心浮き立つ、楽しいことばかり…とは、一概に言えない。
己の越し方を振り返ってみれば、容易にわかる。
彼女と共にいる時は、あまりに幸せで、満たされて、時間はまさに矢のように過ぎる。だが彼女と会いたくても会えない時の寂寞、焦がれるあまりの苦しさは筆舌に尽くしがたい。至福の一瞬、その喜びの味わいを知っているからこそ、そうでないとき時との振幅が大きくなる。
それに…
自分が彼女に対し『好きだ』といい、彼女も『好き』と応えてくれる時、オスカーは、天にも昇るような至福を感じると同時に、茫漠とした不安と寂寥に苛まれてもいた。自分が彼女に抱く好意と、彼女が自分に示してくれる好意が、同量等質のものであるとはー同じほどに熱いとはーどれほど自惚れたくとも、そうは、思えないゆえであった。
『同じ《好き》という言葉でも…「好意」という感情自体は同じであっても、俺が彼女に対していう『好き』と彼女が俺に対していう「好き」の間に、どれ程の距離と齟齬があることか…どれ程の温度差があることか、俺は、それをはっきりと思い知らされるのが恐い。なのに、一方で、俺は、つい、夢見てしまう。夢見ることをやめられない。俺が彼女を好きだと思う同じ深さ、熱さで、彼女も俺を好いてはくれまいか、と。俺と彼女の間の『好き』が、同じ意味合い、同じ熱さの言葉であってほしいと、俺は祈らずにいられないのだ』
オスカーは、念願かなって、毎朝、彼女とまみえ、言葉を交わす幸せをかみ締める一方で、際限なく貪欲に傾こうとする自分に戸惑ってもいた。
彼女と誰より頻繁に顔を合わせられ、言葉も交わせる、しかも、彼女も明らかに俺との語らいを楽しみにしてくれている、それがわかるだけに、自分はなんと果報者なのかと思う。
が、アンジェリークに対し「俺が思うように、彼女が俺を思ってくれたら…俺に恋して、男としての俺を欲してくれたら…」とオスカーはつい願ってしまう、願わないといえばウソになる。いや、彼女への恋を自覚した瞬間から、ずっと願い続けてきたといっても過言ではない。
恋をしている時、最高に幸せな瞬間は、自分が想うのと同じように、相手も自分を愛しく想い、自分を欲してくれている、そう、信じられる瞬間だと、オスカーは思っているから。
だが、実際はどうだ。そんな瞬間、どんな恋でも、そう滅多にあるものではないだろう、ましてや、彼女は、恋という感情がどんなものか、いまだはっきりと知らずにいるほど、あどけない存在だ。そんな彼女が、俺と同じ意味あいで「好き」という言葉を発しているわけがない。彼女の唇が俺に「好き」と告げる時、俺は、最高の幸福とともに「でも、これは、俺の望む『好き』とは、きっと、少しばかり、違うのだ」と思い知らされもする。天に昇りながら、同時に急降下しているようなものだ。この感情の起伏は、われながら、きついと思うことがある。
しかも、彼女が俺に恋してくれたら…と願う気持が強い分だけ、求めても得られぬ渇きも激しい。
だからこそ、案じもしたのだ、もし、俺の願いどおり、彼女が俺への恋を自覚したら、俺が今翻弄されているような感情の激しい振幅ー歓喜の絶頂と底なしの不安をめまぐるしく行き来するような感情の起伏と、それに伴う心の消耗を、彼女に味合わせることになりはすまいかと…その可能性を。そんな苦悩を彼女に知らしめる必要がどこにあるのだ?知らなくて済むものなら、知らないままでいるほうがいいのではないか…そんな気持が、俺の頭の片隅にはいつもあったのだと思う。
だって、恋心を自覚してしまったら…俺たちには、楽しい時間より、寂しい時間の方が、確実に多くなってしまわないか?一緒に過ごせる時間と、そうでない時間を比べたら、後者の方が圧倒的に長いはずだから。
もちろん、過ごす時間というのは、量ではなく質が大事だと思う。オスカー自身は、あの僅かな時間でも、今まで、会うにまかせずにいた年月を思えば、この上なく幸せだということもわかっている。
それでも、あまりに短い二人だけの時間が、切なく、やるせないのも事実なのだ。
現実に、俺と彼女が一緒に居られる時間は、極めて短い。でも、恋を自覚すれば、なるべく長く一緒にいたい、できる限り近しく触れ合いたいと願うのも、また自然な感情だ。だが、それは己を苦しくさせるだけのない物強請りになりかねない。恋を知れば、欲しても得られない苦しさも同時に知ることになるー彼女に、そんな苦悩を味あわせる権利が、俺にあるというのか…。
自分を男として欲してほしいと願う一方で、恋にはつきものの寂寥、焦慮、不安をアンジェリークに感じさせてしまうかもしれないことに、オスカーは大いなる疑問と罪悪感を抱いていた。
だから、今までオスカーにできたことは、己の恋心の上澄みの部分を告げるのみ…ただ「好きだ」と告げるだけで、己の激情を晒しだすようなことは、必死に堪えていた。
だが、それは結局「逃げ」ではなかったか、と、今、オスカーは思っている。
友人達との語らいを通じ、そして恋の先達ともいえる月神ソーマから話を聞いたことで、自分が何を目指すべきか、どう振舞えば後悔しないか、そして何より、アンジェリークにとっては何が幸せなのかを突き詰めて考えることができた。
彼女を悩ませたくなかったのは事実だが…それだけでは、彼女を「苦しいこと」「心悩ますこと」の一切から遠ざけようとしてきた天界の高位神たちと、同じになってしまう。彼女を大切に箱にしまいこんで、何も見せず知らせないことで、彼女をあらゆる痛み、傷から守りはしてきたが、同時に、彼女が自分自身で考え、判断し、動くという権利を奪ってきた…それを「幸せ」と言い切る天界の言い分を、俺は独善ではないかと思っているのに、自分自身、彼女に対して同じことをして、どうするのだ。
それに、彼女を、囲い込むなら囲い込むで、俺は、そう徹することもできずにいた。天界神たちほど厳密に、彼女を外界や未知の感情から遮断してもいなかった。本気で彼女を恋から遠ざけておきたいなら、ほのかであっても、俺の恋心をにおわしたりすべきではなかったのだ。だけど、俺は彼女への恋心を全て諦めて葬りさることもできずにいたから、中途半端で煮え切らない態度をとってしまっていたー『俺は君が好きだ、君に恋している』と一方的に伝えるだけで、アンジェリーク自身の気持を確かめること、見つめさせることを躊躇っていた。それでは、彼女も、結局は、どうしていいかわからず戸惑うだけだったろう、彼女は、恋とはどんな感情かも知らずにいたのだから…なのに彼女は俺に「好き」と言われれば「好き」と応えてくれた。彼女は、自分の精一杯の誠意を、俺に示そうとしてくれていたのだ。
なのに、俺は、彼女の本当の気持を知るのが恐くて…彼女が、自身の気持をきちんと見据えた時、俺との温度差を知らされるのが恐くて、一方的に好意の上澄みを押し付けてきただけだ。これを「逃げ」と言わず、なんというのか…
それに…俺が、彼女を恋から遠ざけておいて、無垢のままにおいても…また、次の太陽神が任につけば、彼女は、今以上に寂しい思いをすることは否定できない。その意味では、ラートリー女神やヴァルナ神の懸念は確かに正しいのだ、後で、寂しい思いをさせるくらいなら、最初から心など繋がない方がいいのだという、あの理屈は、たしかに一理あった。
だが、俺は…俺と彼女は、スーリヤとウシャスとして出会うより早く、オスカーとアンジェリークとして出会ってしまった。そして、暖かく優しい時を過ごし、励まされたり、慰められたりしながら、互いに思いあい、心を通わせる喜びを知ってしまった。
知ってしまった以上、知らなかった時には戻れない、俺と出会ったことで、たしかに、アンジェリークは今までに知らなかった、他者と心を通わせあう喜びや、楽しい時間を知ったと言っていたのだから。庇護されるとか、高所から見守るという一方通行の関係ではない、対等に向き合って、相互に気持をやり取りする喜びを、俺との付き合いを通じて、初めて知ったと、彼女自身が言っていたのだから。
もう何も知らなかった頃に戻れないならば、推し進めるしかないのだ。
だから…俺は、君に恋の何たるかを知らしめる。
好きで、愛しくて、君を心から大切にしたい、この上なく優しくしたいと思う同じ心で、俺が、いかに、熱く、激しく、君を求めてやまないか…その激情こそが、恋なのだと、君にわかってもらいたい。
寂しさや不安もひっくるめての熱情の全てを…いや、君が欲しくてたまらないからこそ、同時に、寂しさや苦しさも感じることもあるのだと、恋の持つ負の側面も含めて、君に知ってもらいたい。
君は、俺の恋心を知ったら、怯えるだろうか。思うに任せぬ恋の苦しさを知ったら、すくんでしまうだろうか…
でも『寂しさ』を知るのは、他者を心から欲し求めるからこそだ。『苦しさ』を知るのは、それだけ、強く激しく他者との繋がりを求めるからこそだ。だからこそ、人は、人と心から結ばれた時に、無上の喜びをも知るのだと、君にも、わかってもらいたい、俺は、その喜びを感じさせてあげたい。
恋の喜びを、俺が感じさせてやりたいんだ。君に恋を知らしめるのは、俺だけであってほしいんだ。
だって、君に恋して、俺は、こんなにも幸せだから。
君に会えない時間は寂しくても、だからといって、君に恋しなければ良かったなんて、絶対に思わないから。君に会えない時間があるからこそ、共にいられる時間が、宝石のような光を放つのだから。
そして、こんなにも思いを注ぎ、傾けられる人、こんなにも大切に愛しく思える人に出会えること、それ自体が、奇跡なのだから。
そう思い切るまでに…こんなにも時間がかかってしまった。
それは、俺自身に覚悟がなかったからだ。君に「甘く楽しいこと」以外のものを、教えてしまうかもしれない、その結果を引き受ける覚悟、その責任を負うだけの覚悟が、俺に足りなかったからだ、と、今は思う。
だけど、俺はもう迷わない。
あわてる気や、焦る気は微塵もないが、な。
ゆっくりと、時間をかけて丁寧に、俺が、どれ程君を激しく熱く恋うているか、君を欲しているか、わかってもらいたい。
俺の自惚れでないと思うが…君も、俺を好いていてくれることは確かだと思うから。
後は、君のその気持も「恋」であるようにと、祈りたい、祈らずにはいられない…
雨季の間、頻繁に持たれたソーマ神との酒宴の折ー酒神は、しばしば自ら直々にオスカーたちのところに神酒を持参して、そのまま、オスカーの宮で宴会を始めてしまったー彼秘蔵の神酒は柔らかな口当たりで、するりと喉に滑り込み、それでいて、後を引かないという極上の代物で…それを喫しながら、オスカーは、密かに心に誓ったこんな思いを、気持のいい酒の酔いも手伝って、友と先達に、ぽつり、ぽつりともらしてしまったかもしれない。
訥々と、胸から溢れるままの言葉を口の端にのせていたらしく、何か、面映い反応を返されて、頬を染めた、いたたまれないような感覚だけが翌朝、心に残っていたことがあった。
朝、目覚めた時は、頭はすっきり冴えているのに、その当りの記憶は、あまり定かではなかった。ソーマ神が仕込んだ神酒には、どれにも、幾分なりとも、心の澱や気がかりを洗い流し、リセットするような効果が、あるのだろう。
そのせいだろうか、久方ぶりに迎える乾季の朝の目覚めは、すっきりとすがしいものだった。時刻は未明のこととて、周囲はまだ夜闇の帳に覆われているが、オスカーは、大気の中に、懐かしく慕わしい夜明けの女神の紅色の気を肌にはっきりと感じた。自ずと、身に震えが走った。
『数カ月ぶりに彼女に…アンジェリークに会える、会って言葉が交わせる…』
「会える」と当然のように思えることは、紛れもなく幸福なのだと実感しつつ、オスカーは、流れるような所作で、寝台から起き上がり、太陽を出立させるための身支度に向かった。
『俺は、心に決めたとおり、ウシャスに…アンジェリークに俺の心情を、少しづつ、でも、はっきりと伝えていこう、君を欲するこの気持を包み隠さず…そして、いつか、君に俺の真の恋人、妻になってほしいと希うんだ』
そんな風に思いながら、オスカーは太陽の馬車を出立させた。
久方ぶりにアンジェリークに会え、言葉が交わせる。それだけでも、心が躍りだしそうなのに、自身の決意がはっきり決まったからか、馬達にふるう鞭は、毅然としてぶれがない。必要以上に強く鞭をあてることは決してないが、抑制や逡巡することは決してない。瞳はひたと前を見据え、揺らがない。視線を遠くにやれば、その先には、アンジェリークの姿がある。
アンジェリークは、オスカーの先触れとして、そのしなやかな腕で空を紅色に染め上げながら、オスカーの存在を意識して、後背を気にかけている。彼女がオスカーの到来を待ちわびてくれているのは確かだが、その様子や雰囲気自体は、先の乾季の時と特に変わりはなかった。喜びと期待に満ちてはいるが、落ちついていて、数カ月ぶりに乾季の朝の迎え、久方ぶりの自分・オスカーとの逢瀬かなったというには、彼女には、特に浮き足立ったり、そわそわと落ち着かないといった様子は皆無だった。
しかし、オスカーはこれに特に落胆や失望はしなかった。
というのも、彼女は、雨季の間、ラートリーの夜の衣に包まれて眠っていた筈だから…そして、ラートリーは彼女の魂を抱え込んで決して目覚めさせなかったはずだから、先の乾季の終りから今朝まで、幾日、日が過ぎたのか、彼女には、実感として、わかっていない、だからこそ、彼女は穏やかに落ち着いているのだと、オスカーには察せられたからだ。
アンジェリークの時間の流れでは、恐らく『今日は昨日の続き』という処で、だから彼女の感覚では、オスカーと会うのは、久しぶりでもなんでもない。雨季の期間は彼女にとってすっぽりと抜けた空白ー存在しない時間だからだろうと、オスカーは推測する。
ただ、オスカー自身も、彼女とまみえるのは数カ月ぶりだったが、それでも、焦りや逸る気持はまったくないつもりだった。もう、腹を括ったからだろう。迷いや躊躇いを脱ぎ捨てた分、焼け付くように『なるべく早く彼女の傍にいきたい』『少しでも長く彼女と一緒に居たい』という焦りや焦れの感情も一緒に置いてくることができた、そんな感じがした。
その雰囲気はアンジェリークにもわかったようだ。アンジェリークが、オスカーが馬車を出立させるや否や、オスカーに、こんな風に話しかけてきたからだ。
《おはよう、オスカー、今朝のオスカーは…オスカーの馬たちも、いつもと…今までとちょっと違うみたい…?》
《どう、違う?》
《なんだか…何か…さっぱり、すっきりして、馬車の歩みに、迷いがない。…そう、馬を抑えていない感じなの》
《ああ、そうか、そうかもしれないな…》
《ん、なんだか、馬たちがのびのびしている感じがするわ、足取りが軽やかっていうか…走りたい速度で、走らせてもらえて、気持いいみたい。生き生きして楽しそう》
《そうだな…言われてみたら、その通りだ。俺は、今朝は、馬の速度を抑えようとしていない》
《じゃ、今までは、オスカーの馬たちは、いっつも力をセーブして走っていたの?》
《ああ、多分、無意識のうちに、俺は、馬たちの速度を抑制していたんだと思う。今、思い返してみると、太陽神になってからの俺は、いつも、アグネシカの手綱をきつく締めてばかりいた気がする…》
《そうだったの?どうして?》
《決まってる、そうすれば、君と一緒にいられる時間を少しでも長く引き伸ばすことができると思ってたんだろう。実際には、太陽の運行速度は決まっているから、大して、差はなかったはずだがな、気持の問題で、無意識に手綱を押さえ気味にしていたんだろうな…アグネシカたちには、かわいそうなことをしてしまったが…それだけ、俺は、なるべく長く…少しでも多くの時間を、君と一緒にいたい、そう、思っていたー思っている》
《オスカー、私も、オスカーと似たようなことを思ってたの…でも、実際には、私は、オスカーと反対のことをしてたみたい》
《アンジェリーク?》
《私、私はね、オスカーに早く、私の傍に来てほしくて…私を早くその腕に捕まえて欲しくて、この子になるべくゆっくり歩いてねって、毎朝、お願いしちゃってたの。でも、そうよね、早く捕まえてもらったら、その分、オスカーと一緒に居られる正味の時間は短くなってしまうのよね…どうして気づかなかったのかしら、私ったら…馬鹿だわ。早く、オスカーに私のそばに来て欲しい、オスカーの顔を間近で見たい、念話じゃない、オスカーのほんとの声を聞きたいって、それだけで、頭が一杯だったの…》
《そうか…君は、俺のように世界を見渡す目を持っていないから…俺と君との距離がある間は、俺の姿は小さくしか見えないんだものな…》
《ええ、神殿を出立する時は、オスカーの姿はとても小さくて、それに、これも当たり前だけど、声は全然届かなくて…だから、早く、オスカーの傍に行きたい、オスカーが早く、私の元に来てくれますように、って、そればっかり考えていたの。でも、私、どっちの方が嬉しいのか、わからなくなってしまったわ…なるべく早く、オスカーに私の傍に来てほしいの、やっぱり、この気持は変わらないみたい。でも、オスカーが言うとおり、オスカーとなるべく長く一緒にもいたい…》
《君も…俺と、なるべく長い時間、一緒にいたいと思ってくれているの…か…そして、なるべく俺の傍にいたいとも…》
《ええ、ええ、もちろんよ、オスカーと過ごす時間が、今の私には1番の楽しみなんですもの、オスカーとお話するのが…》
《話すだけ…か?》
《?》
《俺が、どうして、君と、なるべく長く一緒にいたいか、わかるか?俺は君に触れたい…語るだけでなく…この手で直に触れたい…できる限り、長い時間、君を抱きしめていたいと思っているからだ…叶うことならば、いつまでも固く抱きしめて…飽くほどに口付けたいとも思っている、幾度も、幾度でも…》
《飽くほどに口付ける…?ああ…口付けって…幾度も繰り返してもいいのね。私、覚えてるわ、スーリヤ様となったオスカーと娶せの時、オスカーは、初めて、私に口づけをくれたわ…あの時は、何が何だかよくわからなかったけど…あの時の胸のどきどきと、幸せな気持は、今もはっきり覚える。今…いくつか数を数えるほどの時間、唇を合わせているだけでも、私、はちきれそうに幸せだけど……あの時は、今より長く…幾度も繰り替えし、口づけてくれたこと、私、覚えてる…思いだしたわ…その時の…ふわふわと浮き立つような幸せな気持も…》
《ああ、お互いがそう望むなら…口付けにも抱擁にも、限りなどないんだ、そして、俺は…君に…時間を忘れるほど長く、触れ合った回数もわからなくなるほど、何度も何度でも口付けたいんだ…再会の時より、もっと長く、君をこの胸の中に閉じ込め、君の唇を、俺の唇で数え切れぬほど触れて…食んで、吸って…》
《や…オスカー…私、変…オスカーの言葉を聞いていたら…なんだか胸が、すごく、どきどきする…オスカーに、何度も口付けされるって思ったら…今より?前より?もっとたくさんの口づけをもらうの?って思ったら、胸が破裂しそうで…とても…苦しい…こんな…こんな気持…私、知らない》
《こんなことを願う俺は…恐いか?》
《!いいえ!オスカーのことを恐いなんて思ったことは一度もないわ!今だって…恐いとか、嫌とかじゃないの…ただ、オスカーに、何度も口付けされる?その時のことを想像したら…私、なんだか、胸が破裂しそうで…体の奥のほうがきゅーっと締め付けられるように苦しくなって…今も息が苦しくて…》
《…それは、君も俺に触れたい、触れられたいと…心のどこかで望んでくれているからではないか?…アンジェリ−ク…?》
《!?…っ…そう…そうなの…そうかもしれない……オスカー…私…》
《いや…すまん…誘導はよくないな…》
《誘導?》
《ああ、俺は、自分が、そうであれば嬉しい、そうあって欲しい、という願望を、君に押し付けるところだった…俺は君を抱いて、口付けたいから…君からも俺に触れたいと、思ってはくれまいか、と…》
《オスカーは…私が、自分からオスカーに触れたいと思ったら、嬉しく思うの?》
《ああ、話をして楽しいことは、もちろん大事なことなんだが…それは、気のあう友と過ごすのも一緒だ、だが、俺の君への感情は、友情とは違う、恋だから…俺は君に恋しているから、君に直に触れたい、肌と肌をあわせ…隙間なく抱きしめたいと思う。息もできぬほど君を固く抱きしめて、何度も何度も口付けたいと思う。ただ、会いたい、話して楽しいだけで終らず…相手に触れたい、口付けたい、抱きしめたいと思うから…そういう気持は『恋』なんだ》
《私も、オスカーに抱いてもらうのも、キスしてもらうのも好き…じゃ、私もオスカーに恋してるのかしら?》
《その答えは…アンジェリーク、どうか、自分自身で考えてみてくれないか?》
《オスカーが、教えてはくれないの…?》
《恋とは、どんな感情か…どんな風に心が動くか、は、教えてあげられると思う。俺が君に抱く思いこそが恋だから…俺は君に恋している、それは、はっきりいえるから。でも、君が俺を好きだと言ってくれるその気持が恋かどうかは…君自身でなくてはわからない。「好き」という気持にも、たくさんの種類があるから。ただ、考えてみてほしいと言っても、もちろん、強制じゃない、でも、君が、俺をどんな風に好きか、自分の気持ちを見極めてくれたら…俺に…君も、俺に触れたいと思ってくれているかどうか…それを教えてもらえたらと嬉しい、そう、俺は思っている…》
《私はオスカーが好きよ…この「好き」な気持…それが、恋か、どうかをオスカーは知りたいの?どうして?》
《恋は…恋してる時の「好き」という感情は、少々、身勝手な面もあるんだー恋している相手が、自分にも恋してくれないだろうかと、そんなことをつい、願ってしまう。相手の幸せを願う気持はウソじゃないんだが、それと同時に、相手が誰を一番好きなのか、それがどうしても気になってしまう、そして、自分が相手を好きなように、相手にも、同じくらい自分を好きになってほしいと、願ってしまうものなんだ…》
《…だから、私が、オスカーに「恋」しているかどうかが、オスカーは気になるのね?…えっと、じゃ、私の気持も恋だったら、いいの?オスカーは嬉しいの?》
《う…む、だが、アンジェリーク、ひとつ、お願いがある》
《なあに?》
《俺が喜ぶから、俺が望むから…ではない答えを、君が、君自身が、どう思い、どう感じるかを…俺は知りたいんだ…できることなら。俺は君に恋していると告げた、だが、それは、そういえば君が喜ぶから、ではない。俺のこの想いは…恋は、俺の心の奥底から泉のように、自ずと溢れ迸るもので、…無理矢理生じさせることも、無理に抑えることもーできなくはないだろうが、多分、とても苦しい……自分の思い通りにコントロールするのが難しい、そういう感情で…それこそが『恋』なんだ》
《あなたの…幼かった頃のあなたの火の力と同じ?》
《そうだ、アンジェリーク。でも、それより、もっと…自分の意思で、自在に操ることは難いかもしれない。昔、君は教えてくれた、自ずと身中にあふれ出すものは、無理に堰き止めようとしても止るものではない、と。逆に、どれ程、そうあってほしいと念じても、無理矢理作り出せるものでもない、恋というのは、それくらい自分自身にも儘ならない感情なんだ。そして、相手が喜ぶから、という気持から出る言動は「優しさ」の現れであって、恋とは、また異なるものだと俺は思っている。そして、俺は君に恋をしている…君を1人の女性として愛しているが…恋をしていると…「優しさ」を示してもらえるのは、もちろん嬉しいことなんだが…「優しさ」と同じか、それ以上に…自分と同じ「恋心」を示してもらえたらと、強く願い、欲っするようになる…》
《………》
《だから…君が俺に示してくれる好意が、俺と同じ恋なのか、どうか、俺は、知りたいと思ってしまうんだ。だが、俺のことを慮って、俺が喜ぶと思う答えを、意識して用意してくれる必要はない。さっきもいったが…恋とは、自ずと溢れ出る気持で、自分では、ままならない感情なんだ。心の奥底から、つき動かされるように、どうしても、この人でなくてはだめだ、この人以外は欲しくない、とまで言い切ってしまう…身勝手なほど強い感情、それこそが恋なんだと、俺は思う。だから…君の俺への「好き」という気持が、もし、「恋」じゃないなら…好きではあっても「恋」ではないようだと思ったら…何も気にせず、率直に、そういってほしい、そう俺は願っている》
《それで…いいの?オスカーは…》
《ああ、それがはっきりしたら…今の君の気持が「恋」じゃないとわかったら、改めて、俺は、そこからスタートするだけだから。今の君の気持が「恋」じゃないなら、これから…俺は、君に、俺に恋させてみせる》
《!…オスカー…》
《だから…そのためにも、同情や優しい気持から、俺のことを考えたり、遠慮したりして、今の自分の気持ちを偽らなくていいからな?アンジェリーク》
《ん、わかったわ、オスカー。あなたは、私に、正直な、あるがままの気持を伝えてくれた、だから、私も、同じように、率直な気持を見据え、あなたに伝えるようにする…それが、オスカー、あなたの望むことなのね?》
《ああ、そうだ、アンジェリーク、君は…本当に、優しく聡明な女性だ…俺が真に望むものを、ちゃんとわかってくれて…とても嬉しい…正直、今朝だけで、ここまで話せるとは想ってなかった…》
《それで…あのね、オスカー…私の…はっきりとした答えが出るまでは…私は、口付けてはもらえない?》
《まさか!そんなこと、俺が耐えられない…俺は、君と、少しでも長く一緒にいたい、触れたい、口付けたいと、いつも、想っているのだから…》
《オスカー、オスカー、私もよ、私もオスカーにキスしてもらいたい、オスカーの腕に抱いてもらいたい…》
《ああ、君が望むなら…いくらでも…この腕も、この身も、全て…未来永劫、君のものだ、アンジェリーク》
《オスカー…好き…あなたが好きよ、オスカー…》
その言葉をーアンジェリークの好意を感じた瞬間、オスカーの胸中は、嵐のように荒れた。
その好意こそが、恋だと、君も俺に恋しているのだと、君も、俺を男として欲しているに違いないと、俺は、この場で決め付けてしまいたい、そして、君に、俺を欲する言葉を無理にでも言わせてしまいたい。素直で優しい君は、恐らく、俺の望むままに…俺がこういってくれと願えば、願った通りの言葉を紡いでくれるだろう、そういえば俺が喜ぶと思えば、何の疑問ももたず…だって、君が俺に好意を抱いてくれてることは事実なのだから…
でも、その気持が「恋」かどうか…それは、俺が決めていいものではない。
焦らない、俺は、待てる。俺たちには、たくさんの時間がある…はずだ。だから、ゆっくりでいい。自分の気持ちを見つめ…俺への想いが、どういう類のものか…例えば、ラートリー女神やヴァルナ神に対する愛情と同じなのか、そうでないのか…みつめて…はっきりと、わかったら教えてほしい…
もし、俺に対する気持も、肉親や友人に対するような穏やかな愛情だったら…落胆するのは、否めないだろうが…それでも君に「俺に恋させてみせるさ」と俺は、やっぱり豪語するだろう。若干の強がりがあることは否定しないが…それでも、他の火の男が代替わりする太陽神よりは、俺の方が、絶対に、君の幸せを願うと言い切れる、だから、俺も、強気になれる…
そんなことを思いながら、オスカーはアンジェリークに口付けた。
自分の願望のなせるワザか、アンジェリークと口付けられる時間が、少しづつーといっても1、2、数える間が増えた程度の僅かな時間だったが、増えてきているような気がオスカーはしていた。
翌朝の未明、鏡面のように静かに佇む火の泉の少し上、どこからともなく無数の光の粒が生じ、寄り集まり、華奢な少女の肢体をかたちどった。と、次の瞬間、光の粒子は、あどけなさを面に残す、たおやかな少女となった。生まれたままの姿の少女は、見えぬ手に静かに降ろされているかのように、ゆっくりと、火の泉の中にその身を浸した。
火の泉の中で、しなやかな腕は、己が身をなでるように、巻きつけるような玄妙な動きをみせる。舞を舞うように腕がしなうたびに、少女の裸身を、紅色の霞のようなものがまとわりついていき、霞は、見るまに角度によっては金色にも見える紅色の綾衣へと変化する。
『なるべく急いで、だけど、念入りに、火の衣を身にまとわなくちゃ…』
夜明けを紡ぐため、火の衣を身にまとうための水浴は、暁紅の女神にとっては義務の一貫だったが、今のアンジェリークにとっては、大好きなオスカーといられる時間を少しでも長くするための、懸命の作業であった。火の衣を少しでも、しっかりまとっておけば、それだけ、太陽の熱気に長い時間耐えられるようになるはず、そう信じてのことだった。気休めかもしれないと思いつつ、僅かな可能性にも、すがらずにはいられない、そんな気持で、アンジェリークは、オスカーがスーリヤの名を継いでからというもの、今までとは比べ物にならないくらい念入りに禊をするようになっていた。
とにかく、現世に留まっていられる時間を、少しでもいい、可能な限り、引き伸ばしたいのだ。
昨日、オスカーに言われた言葉、問いかけが、アンジェリークの心に、ひっかかったままだった。
『私、オスカーのことが好き、それは絶対。だけど…この気持が『恋』かと問われたら、まだ、よく、わからない…』
だから、よく考えてみたかった。
オスカーに、恋する気持とは、どんなものか、教えてもらった。
話していて楽しい、一緒にいたい、なるべく傍にいたいと思う。
オスカーに抱きしめてもらうのが嬉しいし、待ち遠しい。口付けてもらうときは、頭が真っ白になって、身体中幸せではちきれそうで…文字通り、私は、幸せな気持が身中に収まりきらず、爆発するように光の粒となって大気に広がっていく。オスカーが、スーリヤになってからは、ずっとそう。
この気持は、オスカーの言う「恋」ではないのかしら?
でも、これだけじゃ、まだ、足りないのかな。うん、足りないような気がする…なんだか…オスカーが私に「俺は君に恋してる」…と伝えてくる時の思念は、何か、もっと奥深くて…複雑な綾があって…
だって「きっと、私もあなたに恋してる」といった時、オスカーは、なんともいえない、不思議な思念を放っていたもの。喜びの気持も感じたけど、何か違う?物足りない?もどかしい?そう訴えるような…一言ではいえない、込み入った、色々な気持が、まぜこぜになって、今にも、あふれ出しそうだった。
オスカーの言う「恋」は、ただ「好き」というだけのものではないんだわ…多分。
恋する気持って、もっと、奥深い情動があるのかもしれない…
でも、私が、オスカーを好きと思うこの気持が「恋」じゃないって言い切ってしまうのも、違う気がするの。オスカーが教えてくれた「恋」と、私のオスカーへの「好き」な気持は、重なるところが、たくさん、あるのも確かなんだもの…。
もっと、オスカーに聞いてみたい、恋するってどういうことなのか、恋すると、どうしたくなるのか。
そして、私も同じ気持を抱いてれば、きっと、それは恋なんだって、はっきりわかると思うから。
でも…最近、私、変なの。
色々なことを考えたいし、ミトラさまやヴァルナ様や、ラートリーとお話したい、何より、オスカーとおもっとお話したい、オスカーに会いたいって思ってるのに…私、上手く体がもてない。夜明けにオスカーに抱きしめられて…意識を失う直前に、夜になったら身体を持とうと思っているのに…
だって、私、天空の道にいる間しか、オスカーと言葉を交わせないのだもの、そして、それは、本当に僅かな時間なのだもの。今までは…短いと思ったことなどなかったのに…
だから、私、雨季に入るのを、本当は少し楽しみにしていたの。毎朝、オスカーには会えなくなるけど、その替わりに、飛び飛びでも、一時に、もっと長い時間一緒に過ごせるんじゃないかと思っていたから。
だって、雨季の夜間なら、私も、いつもより、長く身体を保てるはずだから。だから、私、昔…オスカーが、まだスーリヤ様の御名を拝する前、折々の夜にオスカーに会いに行って、色々お話ができたんですもの。オスカーが野の花をくれた時の嬉しさは、今、思い出しても胸が熱くなるの。
だから、雨季に入ったら…翌朝、夜明けの禊が必要じゃない夜に、身体をもって、昔みたいにオスカーに会いにいこうと思ってたの。オスカーがスーリヤ様になってくれたから、スーリヤ様のお住まいの東の宮になら…火の泉の直上にあるから、私、実体化できる筈だと思ったの。
なのに、きがついたら…目覚めたら、雨季は終ってたわ…
此度の雨季が、どれくらいの日数があったのかは、わからない、もしかしたら、すごく、短かったのかもしれない、でも…気がついたら、もう、雨季が終ってた。
私、この雨季の間、夜間に一度も身体をもてなかった…ううん、ちらとも目覚めなかった…こんなこと、今までにはなかったのに…雨季になれば、幾夜か数えるほどでも、天の宮を訪れて、ヴァルナ様やラートリーとおしゃべりできるのが常だったのに…特に、この雨季は、オスカーに会いに行きたくて…私、オスカーに抱かれて光になった瞬間、東の神殿に行こう、身体を形作ろうって、強く意識してたのに…それが果たせないまま、雨季が終っていた。
いえ、考えてみたら、雨季でない時も同じだわ…。
ちょっと前までは、乾季の間でも、極、短時間なら…意識すれば、身体を持てた筈なのに…だから、私、ヴァルナ様に耳飾を預けることもできたのに…最近は、気がつくと、もう、すぐ夜明けで…今朝も同じ…目覚めの禊をする時間になってしまってる…。
こんなこと、今まで、なかったのに…
私は、あまり、しっかりした存在じゃないから、実体化する時間も回数も、多くはもてないし、ちょっとしたことで、すぐ、自我を保てなくなってしまう…でも、昔、オスカーに会いたいと思った時は、もっと、ちゃんと火の泉で実体化できたのに…最近は、夜に、東の宮に行きたいと思っても、上手く果たせない。
どうしちゃったのかしら、私…。
オスカーに聞かなかったのは、オスカーとは、別に幾らでも話したいこと、聞きたいことがあるから、つい、その場になると、忘れてしまうのと…オスカーを心配させたくないから。私が、この頃、上手く、体がもてないのって、オスカーに言っても…いくらオスカーが「百神の王」でも、どうしていいかわからなくて、困らせるだけかも、心配させるだけかもしれないって思うから。
だから…今度…交替の儀式の時に、折りをみて、ラートリーに聞いてみよう。今、私が、言葉を交わせるのって、オスカー以外はラートリーだけなんですもの、それに、ラートリーなら…あやふやな私と違って、しっかりしてるラートリーなら…夜の世界のことなら、何でも知っている筈だし、夜に私が体がもてない理由も、見つけ出してくれるかもしれないし…
何の気なしに、そんなことを思いながら、ウシャスとしてのアンジェリークは、念入りな水浴を終えた。
アンジェリークは、紅色の衣、金色のベール、様々な金鎖を身にまとい、この世で最も美しい女神として、泉の辺にすっくと立った。片方の耳にのみ揺れている金の耳飾が、完全無欠ともいえる隙のない美を、微妙に不均衡に崩しており、それがまた、かつてのアンジェリークにはなかった危うげな美しさ、艶やかさをかもし出していた。