ラートリーは迷っていた。永劫にも近い歳月、並ぶ者無き高貴な夜の女神として、地上の生き物たちのみならず五眷属の神々全てからも、崇められ敬われ、その玲瓏たる美しさを讃えられてきたラートリーは、今まで「迷い」などという感情に、徹底的に無縁であったのに、だ。
ラートリーは、常に自信と誇りに満ち溢れていた。彼女の役目たる夜の守護は、替わる者なき名誉ある職務であったし、星月夜の深遠なる美しさは、そのままラートリーの美しさとして万民から仰がれ、祭祀で讃えられてきた。
常に賞賛され、憧れと僅かな畏怖を持って見上げられているラートリーは、あらゆる局面において、自分を疑ったことなど皆無だった。最高位の女神である自分は、光の眷属の理念や理想を忠実に体現している存在であり、光の眷属の象徴でもあり具象でもある、ラートリーは己をこうみなしていた。これはラートリーにとって絶対の真実だった。だから、己の考えも己の行いも己の言葉も、常に正しいという信念を、ラートリーは持っていた。正義は常に己にあり、己が言動を省みたことなど、生を受けてから、このかた、ただの一度とてなかった。
それが今…こんなにも長い歳月を生きてきて、初めて、ラートリーは、己の行いに迷いを感じた。
そして『己の行動に迷いを抱いた』という事実そのものが、ラートリーは許せなかった。
私が間違ってるはずがない、私は、いつでも、ウシャスのため、ウシャスの幸せだけを考えてきたのだもの。
でも、ソーマ様がおっしゃる通りなら、私は、ウシャスの望みを邪魔している?
それは、つまり、私は、光の女神の意向に逆らっているということ?女神の意思を無視し、蔑ろにしているということ?
光の眷属は、女性の意思を何より尊重する。というのも、女性は次代を生み出す存在だからだ。一族を増やすことは『遍く広く拡散するを良しとする』光の眷属生来の欲求を、本質的、根源的に深く満足させる行いである、ゆえに、女性は光の眷属の理念を体現する存在、いや、体現するに欠かせない存在だからー尤も、光の眷属の女性は、その分、男性を見る目が厳しいので、言うほど容易く一族は増えない、が、だからこそ、光の男は、自分の子を産んでもらうために、ますます、女性を尊重し大切にする。
そして、これこそが、光の眷属が、五眷属の中で最も優れている証左のはず。野蛮な他の眷属との決定的な違いのはず…
なのに、もし、私が、ウシャスの望みを阻止しているのだとしたら…私がしていることは、あの野蛮な火の眷属の男たちと同じ?次代を生み出す大切な存在の意思を無視したり、取るに足らないものとして蔑ろにするのは、何より野蛮な行為なのに…、私が、ウシャスの望みを阻んでいるとしたら、それは、同じこと?
ラートリーはその考えのおぞましさに、思わず、ふるりと震えた。知らず知らずのうちに、腕を己が身に巻きつけるようにして、自分自身を抱く。
バカな!そんなバカな!
わたくしが、そんな人を人とも思わない…私は、そんな野蛮で恥知らずではないわ…ないはずよ、だって、私は夜の女神ラートリーですもの。
…でも…
ラートリーは、雨季の間の自分の行いを思い起こす、自分が、常に、東の神殿への注視を怠らなかったことを。
此度の雨季の間、ラートリーは、幾度となく、紅を帯びた、この世で最も清らかな光の粒が東の神殿に寄り集まる気配を感じては、それを、無理やりのように散らしてきた。光の粒が一点に凝縮しようとする度に、その力場の中心点を見つけては、そこに夜闇の力を送り込んで、光の粒を強引に深い眠りに誘った。
星空を背にした自分には、無限の力の流入がある。日没から日の出までは、ラートリーは文字通り万能だから、それくらい、ラートリーにとっては、片手を挙げるよりも造作もないことだった。
そして、つい、先日までー今の乾季に入るまで、自分のこの行いに迷いを感じたことなど、ラートリーは絶えてなかった。自分は正しいことをしているという絶対の自信があったから。
でも…私、たしかに、ウシャスの意図を聞いてない、確かめてない。
そして、ウシャスの気持を、はっきり聞いていなかったからこそ、光の粒子の凝縮を、自分は迷わず阻止できたのだと、ラートリーは認めざるをえなかった。
その意図を薄々感じていたとしても、言葉として発される前なら、それは明確な望みとはいえないから。聞かされていない望みを、私に知る余地はないし、知らない望みを邪魔することなどできない、その理屈で、ラートリーは自分の行いを正当化できた。
でも、もし、ウシャスが、はっきりと「夜に身体を持ちたいの」と私に訴えてきたらどうしよう。
それを邪魔する権利は私には無い。いいえ、何人たりとも、どんな高位の神にも、光の至高の女神であるウシャスの望みを阻む権利などないし、そんなことは、もとより、許されるものではない。
それに、そんなことをしたら、私、一番嫌いな、一番軽蔑している火の男たちと同じになってしまう…
だから、今、ラートリーは、ウシャスに話しかけられることが、恐かった。
ウシャスに「私、最近、夜、実体化しようと思っても、上手くできないの。どうしてかしら?」と尋ねられるのが、恐かった。
自分が、ウシャスの実体化を邪魔していると知られるのが恐かった。
それを知れば、ウシャスは、どうして?と重ねて自分に尋ねるだろう。でも、その理由をーラートリーなりの理屈を説明しても、それを彼女に理解して納得してもらえるか、自信がなかった。
なによりラートリーは、言葉を尽くした後に「それでも、私は、夜、実体化したいの」とウシャスに明言されることが恐かった。
そうしたら、もう、私にはウシャスの実体化を邪魔できない。邪魔してもいい理由を見出せない。
ウシャスは、ラートリーと同格のーつまりこれ以上高貴な存在はいない、という格の女神なのだから、有無を言わさず、自分の意に従わせることもできないし、もとより、ラートリーはウシャスに対し、そんな風には振舞いたくない。
だから、ラートリーは、先の雨季が明けてからというもの、今までにない気鬱に悩まされていた。
これまでは、極短い時間、すれ違うだけとわかっていても、夜明けの禊を済ませたウシャスと会うのが、毎朝楽しみだったのに。
今は、ウシャスの顔を見るのが恐い、声を聞くのが恐い。だから、ウシャスと目をあわせられないし、彼女の方から声をかけられないよう、儀式を終えるや、そそくさと逃げるように、神殿を立ち去らねばならない、その寂しさ、情けなさ、惨めさは、ラートリーが初めて知った負の感情だった。
無限に近い時を生きてきて、こんな思いをするのは、初めてだったし、こんな思いなどしたくなかった。
こんな葛藤に自分を追い込んだソーマ神が恨めしく、それ以上にスーリヤを疎ましく思った。
「だって元はといえば、全部あのスーリヤの所為じゃないの!あの火の子が、スーリヤになったりしなければ、私だって、ウシャスの実体化を邪魔したりせずに済みましたのに。私が、光の女神の望みを邪魔するなんて野蛮なことに手を染める必要もありませんでしたのに…」
そう考えてしまった時点で、ラートリーは、自分の行いに理がないことを内心は悟ってたといえよう。
だが、ある意味、ウシャスとは別の意味で少女らしい心をもつラートリーは、己の非を一切認めることができなかった。
ただ、ウシャスと顔をあわせるたびに、何か後ろめたい気持を抱いている自分が嫌でたまらず、それは全部、スーリヤの所為だと原因を他に求めるばかりだった。
他を非難し、責を負わせることで、解決することなど皆無だとわかっていても、なお。
そして、そんなラートリーの足掻きも虚しく、ある朝、ラートリーが最も恐れていた事態が起きた。
いつものようにウシャスが禊を終えて東の神殿に降り立った。聖なる炎の具象である火の衣をまとったその姿は、限りなく神々しく、美しい。
ラートリーは少し前から気づいていたが、最近、ウシャスは、ますます美しくなった。いや美しさの性質が、若干、変わってきた、とでもいうのか。とはいっても、彼女の清らかな美しさや高雅な気品に、なんら変わった点はない。彼女が、可憐かつ清楚なたたずまいの、どこか表情に、あどけなさを残す女神であることも。温かみのある乳白色の肌は、いつ見ても透き通るようで…同じ白い肌でも、自分の蒼白い肌の色と違って、ウシャスの肌は生き生きと、溌剌として、見るからに生気に満ち溢れて見える…まさに「水浴を終えたばかりの乙女」という賛辞が似合いの瑞々しさだと、ラートリーは思う。そして、最近のウシャスには、そんな初々しさに加え、鮮やかなまでのあでやかさ、匂いたつようなつややかさが、加味されてきた気がするのだ。
今までのウシャスからは感じられなかった、なんともしっとりとした風情というか、なよやかな趣というか…艶やかな香気とでもいうようなものが、そこはかとなく漂ってきて、彼女の清楚さに艶と彩を添え、彼女の美貌を更に魅惑的なものにしている気がするのだ。
そして、この変化は…認めたくない、認めたくはないが、新スーリヤが即位してからというもの極めて顕著になった気がラートリーはするのだ。その意味は考えたくないが。理由など知りたくなどはないが。
そして今朝、いつにも増して艶やかに見えたウシャスの容姿に…日に日に磨きがかかっていくように思えるウシャスの美しさにラートリーはつい目を奪われ、だが、その理由は決して考えまいと、必死に己に言い聞かせていた間に、ラートリーは、ウシャスから話しかけられる隙を自ら作ってしまった。ここ暫く、ずっと、その機会を与えないように、気を張っていたにも拘らず。
夜の間、自分が握っているこの世全ての覇権を手放し、天空の道を譲り渡す象徴として、ウシャスと手をあわせ、すれ違うのはほんの一瞬だから、その間、目を合わせないようにしようと思っていたー今までは、そうしていたーのに、今朝は、ウシャスの美貌にしばし見惚れていたせいで、彼女から声をかけられてしまった。
「あ、ラートリー、ちょっといいかしら…実は、私、あなたと、お話したいことがあるの」
「!?…ウシャス……ああ、ごめんなさい…私、とても疲れているの、とても眠いのよ」
もちろん、逃げ口上だった。夜闇から無限の力を得られるラートリーは、夜中、働いていたって、全く疲れを感じることなどない。しかし、純真なウシャスは、ラートリーの言葉に、明らかに顔を曇らせた。
「え?…大丈夫?ラートリー」
「ええ、寝れば…休めば平気」
「ラートリーは、夜の間中、星闇の静寂を守っているのですものね、私とは比べ物にならないくらい、長い時間、夜の世界を見守り、平穏に保っているのですものね、ごめんなさい、そんなこと、わかりきっているのに、私ったら、気がきかなくて…疲れてるラートリーを引き止めたりして…」
「いいえ!あなたが悪いんじゃないわ、気にしないのよ、何も、気にしないで、ウシャス…」
ラートリーは、ウシャスが心配そうに謝るものだから、罪悪感で胸が痛くて仕方ない。自分は夜の世界を完全に掌握・守護できるだけの力があるからこそ、夜の女神なのだ。一晩中起きて、夜を見守っていても、疲れることなどないから、大丈夫、心配しないで、とウシャスに言ってあげたかった…が、どうしたって、言えない…結局、口から出たのは、こんな、なんの説得力もない、おためごかしのような言葉だけだった。
「あ、ええ。あの、じゃ、ラートリーが疲れてない時があったら…その時は、少しでもいいの、私のお話聞いてくださる?」
「……」
「ラートリー?」
「私、もう、眠るわね…もう、目をあけていられないの…」
ラートリーはウシャスと、いかにも単なる儀式の所作として、あわただしく掌を合わせるや、逃げるように夜の狭間に姿を消した…いや、違う、文字通り逃げたのだ、狭間の次元に。太陽が天空にある間、自分が心身を安らげる、夜の女神だけの空間に。
だが、ウシャスの願いは、はっきりとラートリーの耳に入っていた。
「話を聞いてほしい」というウシャスの願いを、ラートリーは聞いてしまった。
どんな話かは、察しがついた。そんな話は聞きたくなかった。だが、ウシャスの願いをラートリーは拒めない。そして、最初の話は端緒にすぎずとも、一度、その端緒が拓かれれば、ウシャスは、すぐさま、真の望み、真の願いを口にするだろう。そして、そうなれば…ウシャスが、はっきりと口にした願いをはねつけることなど、光の眷属の理念からも、ラートリー個人の心情からも、それは不可能なこととなる。
もちろん、今のように「疲れている」といえば、ウシャスは、食いさがったりはしない。話すのは諦め、待ってくれるだろう。だが、それなら、そのウソを、いつまでつきつづけることになるのか、いや、そも、疲れの理由を尋ねられた場合は、なんと答えるのか、これもウソで通すか、さもなくば「あんたの実体化を邪魔しようと一晩中気を張ってるから、疲れてるのよ」などと告げるのか…いえるわけがない。
『ああ、もう、なんで私が、こんなことで悩まなくちゃならないの…』
そして私がこんな嫌な思いをするのも…あのスーリヤが、ウシャスの前に現れたからだ。ラートリーの思考はいつもそこに戻ってしまうのだった。
自らが尋ねたいことは飲み込んで、ラートリーの体調を気にかけるウシャスの心情に、思いを馳せる余裕は、ラートリーには望めなかった。
ある意味、ウシャスと同じように純粋で、かつ、常に周囲から崇められるばかりだったラートリーは、これまで、自分の感情を隠したり、押し殺す必要が、一切なかった。元々最高位の神の1人である上に、光の眷属は女性を大事にするから、尚更だ。ラートリーは、だから、自分が初めて心に抱いたやましさを隠す術を知らないし、隠そうとすることすら思いつかず、あからさまに態度に現してしまう。そして、その不審な態度をみた周囲がどう感じ、何を思うかーそこまで考えることは、ラートリーには難しい…というより、不可能なことだった。
己が牝馬の首を宥めるように軽くたたき、ウシャスは、空を暁の紅に染めるため、天空の道へと出立した。
ラートリーに、何も尋ねることができなかった。
それを残念に思うより、アンジェリークはラートリーの常ならざる様子が気にかかった。
夜明けに、二人の姉妹神は、すれ違いざま、手を合わせ、その時、ウシャスは守護すべき世界をラートリーから譲り受けるーしかし、ウシャスは世界を支配はしない、一時預かるだけだ、そして、ウシャスはスーリヤに抱かれて一体・不可分となることで、この世界の覇権を、そのまま太陽神に託すーそれは、ほんの一瞬の典礼であることは事実だ。それでも、その束の間の時間、ラートリーは、いつも、ウシャスに優しく笑いかけ、一言二言、言葉を交わしてから眠りについていたものだった。
なのに、この乾季に入ってからというもの…ラートリーは私と目を合わせない、言葉もかけてこない、私から声をかけようとしても、ふいと、そっぽを向いて、すぐ、眠りについてしまうー取り付く島がない、ずっと、そんな感じだった。
だから、今日、久しぶりにラートリーが私の方を見ているのに気づいて、漸く声を掛けられた。なのに、ラートリーは妙に落ちつきがなくて、おどおどして…その上、なんだか、憔悴した様子だった…疲れているという本人の言葉の通り。
でも、ラートリーが、落ち着かないなんて、疲れてる様子なんて、私、今まで見たことがない。私が女神としての名を賜った時から、ずっと、ラートリーはいつも堂々として、自信に満ち溢れていて…疲れを見せたことなんて、一度だってなかったのに…どうしちゃったの、ラートリー…
私も、最近、ずっと夜に実体化できないし…私たちは姉妹神だから、何か関係があるのかしら?何か、私たちが、普通の状態でなくなってしまうような要因が、どこかにあるのかしら?
ヴァルナ様かミトラ様にお尋ねしてみたいけどー特にラートリーの様子が、何かおかしなことが気になるし…でも、私、望んでも、何故か、夜に体をもてないから、今は無理…
だから、今、私が言葉を交わせるのはオスカーだけ…どうしよう…オスカーに心配かけまいと思って、自分のことは、何も言わずにいたけど、ラートリーのことが、気になる…オスカーは、世界のすべてを掌握する百神の王だもの、ラートリーの疲れの原因も知ってるかもしれないし、原因がわかれば、ラートリーに元気を取り戻させてあげられるかもしれない、そして、ラートリーがいつもみたいに元気になれば、私が夜に身体をもてない理由を、ラートリーに尋ねられる…オスカーに心配をかけずに…
うん、私、ラートリーのこと、オスカーに、聞けるようだったら、聞いてみよう…
そう思って、ウシャスは、ちらと、東の神殿の方に目をやった。そろそろ、オスカーが、馬車を駆り、私を追って、神殿を出立する頃合ではないかと、胸を期待に弾ませて。
いまや、アンジェリークは胸の高鳴りをはっきりと感じている、自覚している。オスカーが、もう、まもなく、雄雄しい姿を現す…堂々と威風なぎ払って、太陽の馬車を操って私の許に駆けてくる…私を追い、逞しい腕に捕らえるために。そして、私を厚い胸にしかと抱きしめ、口づけを与えてくれる…
その一瞬を思いおこすと…胸がどうしようもなく騒ぐ、ときめく。オスカーの腕の力強さ、その胸の暖かさ、優しく情熱的な抱擁と口づけ、そのどれを思い出しても、アンジェリークは、体の奥底が、きゅ…と絞られたような心持になる。少し息苦しくて、胸が痛くなる。なのに、それは、ちっとも不快ではない痛みなのだ。オスカーが教えてくれた通り。
『私、オスカーのことを思うと、体の奥が…胸の中がきゅっ…と痛くなる。なのに、この痛みが全然嫌じゃない、それどころか、心は、この息苦しさを、待ちかねてさえいるような気がする…そして、オスカーが教えてくれた、好きな気持に加えて、その人のことを思うと、何故か、苦しくなったり、胸が痛んだりするのは、恋だって…『好き』という以上に強い感情である『恋』だって…だったら、私のこの気持は、やっぱり『恋』ではないかしら…私、オスカーに恋している、ってことじゃないかしら…』
オスカーに尋ねたいこと、お話したいことが、たくさんあって、ありすぎて…全部、お話できるかしら…でも、お話するだけで今朝の逢瀬が終ってしまったら、少し、寂しいって思ってしまうかも…
ああ、もっと長く、現世に留まれたらいいのに…どうして、私の体は、こんなに頼りないのかしら…もっと、オスカーと一緒にいたいのに。ずっと、オスカーと一緒にいたいのに…
《オスカー、オスカー…早く、私のところにきて…》
《ああ、一刻も早く…今すぐにでも、君の元に…君の傍に行きたい…》
《!》
いきなり、オスカーの声が、頭の中に響いて、アンジェリークはびっくりして、顔を後方に向けた。
見れば、オスカーの御す太陽の馬車が、丁度、神殿を出立したところで、アンジェリークは、無意識の内に、己の願望を念話にして、オスカーに向けていたことに気づいた。そして、オスカーが、即座に、それに応えてくれたのだ。
何故だか、頬が熱くなる。
オスカーの馬車は、まだ、遠いのに…太陽の熱気は、まだ、私の元まで届いていないのに、どうして頬がこんなに熱いの…?
自分の心の不思議な動きに戸惑っていると、オスカーの言葉が続けて伝わってきた。
《でも、あまりに早く着いてしまうと、君と交わせる言葉が少しで終ってしまうようで、それも、寂しいんだ、俺は…》
この言葉が、なんだか、すごく嬉しくて、アンジェリークは勢いこんで、こう答えた。
《オスカー、私もよ、私もなの。オスカーと少しでも長い時間、一緒にいたくて、いられないかと思って、私、今まで以上に、念入りに火の泉で禊をしているの。少しでもたくさん、火の衣をまとえるように、そうすれば、オスカーといられる時間が、少しでも長くできるんじゃないかと思って…だって、私のこの体、あまりに心もとなくて、いつも、もどかしいの…もっと長く、オスカーと一緒にいたいのに…》
一瞬、オスカーが息を飲んだような気配が、伝わってきた
《アンジェリーク、君は、俺と、少しでも長く、一緒にいたいと思ってくれているんだよな…》
《ええ、もちろんよ、少しでも、長く、オスカーと一緒にいたいの…》
《…それは、なぜだか、考えてみてくれたか?》
《オスカーが好きだから、オスカーに少しでも長い間、抱きしめて、キスしてもらいたいから…》
《そうか…俺も…同じだ…》
《ねぇ、オスカー、私、オスカーのことが大好き。でも、『好き』っていう気持だけでは『恋』とはいえない…『好き』と『恋』とは、違うものだって、オスカーは教えてくれたわね?》
《そうだな、俺が思うに『好き』はたくさんの人に抱く感情だ、君は、ラートリー女神やヴァルナ神、ミトラ神のことも好きだろう?でも『恋』は…ただ1人の人に抱く感情だ。取替えの効かない、掛けがえのないただ1人の相手に…》
《それは…1番好きってこと?誰かと同じくらい、じゃなくて、誰とも比べられないくらい、1番好きってこと?誰か、同じ位好きな人がいたら、それは「好き」であって「恋」じゃない…でも、誰よりも好きって言い切れるのなら、それは恋?》
《そうだな、かなり近い…と思う》
《私…それなら、私はオスカーが1番好き…誰よりも1番好きよ…》
《!!!…アンジェリーク…》
《オスカー、私、考えてみたの、オスカーは、好きというだけでなく、相手のことを思うと、何故か、胸が苦しくなったり、痛くなるのが恋だって、教えてくれたでしょう?あのね、私…私も同じみたいなの。今さっきも、オスカーが、もうすぐ、神殿を発って、私のところに着てくれる…私を、抱きしめて、口づけをくれるって思ったら、胸の奥がなんだか苦しくなって…でも、それは全然嫌な苦しさじゃないの…こんな風に感じるのは…この気持は、恋ではないの?私、オスカーに恋しているんじゃないかしらって、感じるの…》
《アンジェリーク…》
《それに、こうも思ったの。私、毎日、オスカーとお話したいことがたくさんあるわ、でも、お話だけで終ったら寂しいかもって。オスカーの腕の中に、オスカーの胸に抱いてもらって、口付けがもらえなかったら、寂しいと思ってしまったの、これは…恋ではないの?》
《アンジェリーク、俺は…俺は、君のその言葉が、とても…とても嬉しい…》
《じゃあ、やっぱり?これは…恋?私、オスカーに恋しているのね?…そうよね?オスカー、そうだと言って…?》
《今、俺が夢を見ているのでなければ…確かに、それは…『恋』だと思う。少なくとも、とても恋に近い…感情だと思う…》
《近い…?これだけでは、まだ、違うの…?何か、足りないの?》
《いや…君が今、言葉にしてくれたような心の動きは、確かに恋している時のものだと…俺も思う、だが…》
《だが…これだけでもないの?》
《アンジェリーク……俺は男だから…恋すると…君を抱きしめて、キスしたいと思う、君も、それを望んでくれている…》
《ええ、私、オスカーにキスしてもらうと、とても幸せな気持になるもの…》
《でも、俺は男で、…男は、恋をすると、それだけでは終らないんだ…満足できなくなる…それ以上が、欲しくなるんだ。唇へのキスは、恋の始まり、ほんの序章、いわば前奏なんだ…》
《それ以上、って、どういうこと?オスカーは、もっとどうしたいの?》
《たとえば…俺は…唇だけでなく、君の全身に口付けたい…君の体の隅々まで…君の肌の全て、余すところなく、俺はこの唇で触れたいと思う…君の火の衣をこの手で解いて肩から滑らせ、君の肌を露にして…肌と肌を隙間なく合わせて抱きしめあい…君のすんなりとした首筋、なだらかな肩、二つの胸の膨らみ…その全てに口づけたい…そんなことを願ってしまう…》
《!…》
《…驚かせてしまったか…すまない、俺は、際限のない欲張りなんだ。君に好きだといってもらえ、口づけを望んでもらえているのに…そのうえ、君は、俺に恋しているみたいだとまで言ってくれて、まるで夢のようなのに…今が信じられないほど幸せなのに…なのに、一つ満たされると、それ以上が欲しくなってしまう…恐がらせたのなら、謝る、だが…これは、俺の…恋する男の率直な気持でもあるんだ…だから…》
《あ、いいえ…違う、違うの…やだ…私、変…変なの、オスカー…オスカーに、体中に口づけたいって言われたら…なんだか、前より…オスカーに何度も口付けたいって言われた時より、もっと胸がドキドキしてきたの…》
《!?…恐いとか、嫌だとか…感じてはいないか?》
《…いいえ、ただ、胸?おなか?の奥のほうが、痛いような…きゅーっと絞られるように苦しくなるような感じが…すごく強い…激しい…私、こんなの、知らない…私、なんだか、変…おかしい?…》
《違う、君は、おかしくなんかない!…だって、俺も同じだから。君のことを思うと、君の肌に触れたいと思うと、いつも、胸が締め付けられるように苦しくなる、息もうまくできなくなる…でも、それは、君が好きで、君が欲しくてたまらないからなんだ…》
《私がほしい?私がほしいって、どういうこと?》
《俺は君を抱いて…君と素肌と素肌を直に触れ合わせて…一つに繋がりたい。分ち難く君と結ばれたいんだ。そういう時、男は、愛しい女に『君が欲しい』と言う言葉で、気持を伝えることが多い》
《オスカーと一つに繋がる?…結ばれる…?人と人とが?どうやって?そんなことができるの?》
《ああ、女と男は…互いに望めば、身体を結びあわせることができる。一つに結ばれることができるんだ…そして、恋をすると…俺は…男は…愛する女性と、肌を合わせ、一つになりたい、結ばれたいと…そう、強く望むようになる…》
《あ…私、今、わかったような気がするわ…一つになりたいって…好きな人と「一つに結ばれたい」って、そう思えるか、思わないかが、普通の「好き」と「恋」の違い?ではなくて?だって…肌を合わせるって、とても近くなること…二人の間に、僅かな隔てもなくしたいってって思うほど…それほど強く近づきたいって思わないと、できないことじゃないかしら…》
《そうだ…君の言うとおりだ、アンジェリーク。ただ好きというだけの相手とは…例えば、友人にはそんな感情はおきない…そこまで思いつめない…そして、俺が、欲しいのは、君だ、俺が、肌を合わせ、一つになりたい、分ち難く結ばれたいと願うのは君だけなんだ、アンジェリーク…》
《オスカー…》
アンジェリークは、胸が苦しくて、息が上手くできなくて、言葉も出てこない。
何?この気持は、何?胸の中で、嵐が吹き荒れてるみたい、でも、ただ苦しいのでもなくて…
私…私もオスカーと一つになりたいって思ってる?肌と肌を合わせて、これ以上ないほど、近づきたいと思ってる?
…まだ、よく、わからない…
キスしたい、抱きしめられたい、とまで、思うのは本当。
でも、結ばれるって、一つになるって、どういうことか、私、まだ、よくわからない。どういう風になるのか、想像がつかない…
じゃあ、まだ、私、オスカーに恋してる、とまでは、言い切れないの?
こんなに胸が痛いのに…熱いのに…
だって、オスカーと素肌と素肌をあわせる…オスカーの肌と私の肌が、隙間なく密に触れ合うってこと…?それを思うと、すごく、ドキドキする…恐いとか、嫌だとか、思わない…ううん、むしろ、オスカーとそんなに密に触れ合えたら…オスカーの温もりを…素肌の感触を…直接、全身で感じられたら…どんなに幸せかしらって、思うもの…
こんなにもオスカーが好きで、触れたい、触れて欲しいとも思うのに、それでもこの気持は『恋』じゃないの?
アンジェリークは、どうにも、もどかしい気持がこみ上げて、我慢ができなくなった。
そう思って、気づいた。
私、私がオスカーを好きだと思うこの気持を、オスカーに「恋」だと認めてほしいんだわ、きっと…。でも、オスカーは「一つに結ばれたいと強く願う」気持も伴ってないと、恋じゃないって思ってるみたい、だけど、私、それが、どんなことかよくわからない…
でも、オスカーは、私を欲しいって、言った、言ってくれた、なら…
《じゃ、じゃ、私が、オスカーに私をあげたら、オスカーは嬉しい?》
すると、オスカーから、困ったような…苦笑いとでもいうのか…そんな思念が帰ってきた。
《君なら…そう言い出す可能性を、俺は考えるべきだったな…》
《オスカー?》
《…今は、いいんだ…》
《?》
《君は優しい、そして、君は俺のことを好きだといってくれる…だから、俺が『君が欲しい』といったら…俺が喜ぶと思えば、君は…惜しまず、その身を俺に与えてくれるんだろう、な…》
《だって、オスカーに、欲しいものがあって…それが、私自身だってオスカーが言うなら…私があげられるものなら、私は、あげたい。私をあげるって…どうすればいいのか、よくわからないけど…オスカーが、よろこんでくれるなら…私、オスカーのことがすきだもの。オスカーに喜んでもらいたい、オスカーは、私に、一杯、楽しいこと、嬉しいことを教えてくれたのだもの、私、とっても感謝してるの、だから…》
《ああ、君なら、そう思ってくれるだろうな…》
《だって…オスカーがスーリヤ様になってくださらなければ、私、こんな幸せを、この先もずーっと知らずにいたと思うの。スーリヤ様の御名を賜るのは、とっても大変なことなのに…オスカーのお話を聞いて、太陽の馬車を操れるようになるための訓練がどれほど大変だったのか、よくわかったから、尚更、私、オスカーに心から感謝しているの……オスカー、ありがとう、私にこんな楽しい幸せな時間があることを教えてくれて…何より、スーリヤ様になって、私に会いに来てくださって、ありがとう…私にこんな楽しい時間をくれて…私にこんな幸せがあることを教えてくれて…だから、私も…》
《…お返しとか、お礼とか、そういうことなら…感謝の気持なら…俺はその気持だけで十分なんだ…アンジェリーク》
《オスカー…?》
《俺は君に恋しているから、君も俺に恋してくれたら…と、つい、望み、願ってしまう。というのも、恋というのは、等質な感情を求めるから。そして、思う人に同じように思われる、愛する人に同じほどに愛される…これ以上の喜び、これ以上の幸福はない、と、俺は、そう思っている…だが…今、言った通り、恋は、等質な感情だけを、欲するものなんだ。俺は、君が欲しい、君と一つになりたい、だが、それは、君に感謝しているから…とは違う。もちろん、俺は、幼かった俺に栄光の道を指し示し、俺にスーリヤになる未来を示唆してくれた君に深い感謝を捧げている、だが、それと、君を欲しいと思う感情は別だ。質の異なるものなんだ。俺は、君に恋している、だから、君が欲しいんだ。感謝しているからじゃない…》
《…私が、感謝の気持で、私をあげても、オスカーは…嬉しくないのね…?》
《すまん…君を傷つけたのなら謝る、それに、嬉しくないわけじゃない、俺は男だから…単純な男だから…君が、俺に君自身をくれるというその言葉に…喜びと感動で、この身が震える。本音を言えば…可能なら、今すぐでも君を欲しいとさえ思う、でも、君の気持が、感謝だけなら…それでは、君のことをもらうわけにはいかないんだ。もったいなさすぎて…とてもじゃないが、もらえない。君自身は、それだけ特別で…大切で、貴重で、掛け替えのない存在なんだ。お礼の気持だけで、あげたり、もらったりできるものじゃないんだ、もっと、もっと、ずっと大事なものなんだ…優しい気持、お礼の気持だけで、あげていいようなもの、もらっていいものじゃないんだ、俺にとっては君は…》
《オスカー…ごめんなさい…私…》
《何を謝る?君が謝るようなことは何もない、君は、限りなく優しい気持で、しかも、俺に感謝の気持を示してくれただけなんだから…俺が…俺の方が、わがままなんだ…》
《オスカー…》
《でも、君が、もし、俺と同じように、俺と同じほどに、君自身が『俺を欲しい』と思ってくれたら…その時は…》
《その時は?》
《俺は君をもらい、俺は、俺を君にやる…互いに、互いを与え合うんだ…》
《!…》
《俺の言い方が、悪かったんだ。俺が君を欲しいと思う気持は、真実だが、いわば一方通行だ。でも、恋して結ばれるというのは…互いに、互いが求め合った末でなければ…一方通行では、本当の意味で、一つになるとは、言わないと俺は思っているんだ…互いに強く相手を求め合い、互いに与え合う時が、恋の成就だと、俺は想っていて…君と、いつか、そんな関係になれることを、俺は、望んでいるんだ…だから、お礼や感謝の気持、優しい気持からだけで、君を、もらうわけにはいかない…》
《…ん、わかったわ、私…私自身がオスカーを欲しいのか、どうか…考えてみる…》
《すまん、アンジェリーク、俺は、せっかくの君の優しい想いを、むげにしてしまったのかもしれん…でも、恋すると…優しいだけの想いなら、欲しくない、示さないでくれていい…と、そこまで贅沢になってしまうこともあるんだ、本当にすまん…》
《『恋』じゃない優しさや…好き…は、もらっても嬉しくない?…ううん、もらうと、かえって哀しくなるの?オスカーの心の奥に…今、悲しい…というより…やるせない?そんな気持が、少し見えた…》
《それは…優しさは、同情に近いからかもしれんな…そして、俺が欲しいのは、恋する思いであって…それは、その人しか欲しくないと言い切れるほど、激しく熱く、時として身勝手な感情で…そして、贅沢なことに、俺が一番欲しいのは、君の、その激しい感情なんだ。同情や優しさは、示してもらえれば嬉しいし感謝もする…でも、自分が恋する相手から、それしかもらえなかったら、寂しく、物足りなく思ってしまう…ほら、本当に身勝手で贅沢だろう?君に呆れられてしまいそうだが…》
《ううん、そんなことない…》
《そうか…でも、これが恋という感情の一面であることも事実なんだ》
《そう…》
アンジェリークは、オスカーの言う「恋」が、少し、わかってきた。
恋って、好きって気持だけに留まらないことは、教えてもらってはいたけど。
恋すると、好きな相手に優しくしたい、大事にしたいと思う。でも、好きな相手から、優しくされるだけでは、切なくなってしまう、やるせなく苦しくなってしまう気持…でもあるみたい。
オスカーは優しい、オスカーは、限りない優しさを私に示してくれるのに、でも、私からの「優しさ」だけなら、いらないっていう。同情は、むしろ、さびしいことだっていう…
…多分、恋って、私が考えていたより、もっとずっと…とても激しい感情なんだわ…恋には、同じように熱い恋でなければ…少なくとも、オスカーは、それ以外は、欲していないんだわ、私の恋心以外は…
そう思うと、苦しいのに…なぜか、嬉しくもある…
《ねえ、オスカー…私、一つになるって…結ばれるって、どういうことか、まだ、正直、よくわからない…想像もつかないの…だから、はっきり、オスカーとそうなりたいと思う…とまでは、言い切れないの…》
《そう…だろうな…》
《でも…オスカーと肌を合わせることを考えると…すごくドキドキする…オスカーと素肌と素肌を触れ合わせて…全身でオスカーの温もりを感じられたら…どんなに幸せかしら…って思うの…そうなってみたい…って思ってる…》
《!!!…アンジェリーク…》
《だから…肌を触れ合わせてみたら…オスカーのその気持もーはっきり一つになりたいという気持が、もっとよくわかるかもしれないって思うの…》
《そう…思ってくれるのか…それで…それだけで、俺は…もう…》
《ええ、オスカーと、そうしてみたい…心から、そう思うの…でも…でも、今は…》
《!…アンジェリーク…今、君から、底知れぬ哀しみが…何か…どうにもできないことに対する、無力感?ゆえの哀しみが…俺の胸に伝わってきた…君も、俺ともっと近しくなりたいと…俺ともっとふれあいたいと思ってくれているのに…それが果たせないから…だな?》
《…っ…ええ…私…オスカーに会いに行きたかったの…何度も、夜、会いに行こうとしたの…》
《でも…身体をもてなかった…そうだな?》
《!…どうしてわかるの…?やっぱり、オスカーは百神の王だから…?》
《う…む…》
《オスカー、オスカー、もし、何かご存知なら、教えて?私たち…私も思うように体がもてないけど、ラートリーもいつもと様子が違うの、私たち姉妹は、何か、どこか、おかしくなってしまったのかしら?》
《ラートリー女神が?》
《ええ、この乾季に入ってからというもの、私と目を合わせようとしないし、あまり口をききたくないみたいなの、それに、何か、妙に落ちつきがなくて、疲れた様子で…ラートリーが疲れを見せるなんて、天地開闢の頃から一度たりともなかったことなの、だから、私、心配で…》
《そうか…》
オスカーは、思念が漏れないよう、注意しながら、考え込んだ。
ラートリー女神の不審な振る舞いの原因は、オスカーには、すぐ、察しがついたからだ。
だが、それをアンジェリークにどこまで…どうやって、告げる?
俺には、独善にしか見えずとも、ラートリー女神の振る舞いは、アンジェリークを深く思っての行為であることは事実で、それを悪し様には言いたくない、己の姉妹神が悪く言われたら、アンジェリークだった驚き哀しむのは必至であろうし…
だが、ラートリーの様子を案じるアンジェリークに、その場限りのごまかしもしたくない。
どうしたものか…が、とにかく、アンジェリークの不安だけは払拭してやらねば…と、オスカーは考えた。