自身を抜き去ることなど、考えられなかった。果てた後も、オスカーは、そのままアンジェリークとつながり、暖かく包まれていたかった、だから、そのままでいた。あと、どれ程の時間が残されているのか…オスカーの体感では、太陽光は、まだ、ほとんど感じ取ることはできなかった…かといって、皆無でもないようだ。アグネシカは、思っていた以上に上手く、足並みを月の速度に合わせてくれたようだが、僅かながらも、陽光の気配を感じるということは、太陽と月が完全に重なる真闇の時刻は既に終りを告げ、いまや、太陽は徐々にではあっても、確実に光輝を取り戻しつつあるのかもしれない、されば、月が太陽から離れ行かんとする程に、今まで蓄積した熱波と光輝は、少しづつ放出され始めているはずだった。
だからこそ、オスカーは一層アンジェリークと離れがたい、可能な限り…許される限りの時間、つながっていたい。
そして、共に過ごせるのは、限られた時間であるからこそ、今この時を逃さず、アンジェリークに、絶対に伝えねばならない言葉があった。
オスカーは、この上なく大事そうにアンジェリークを抱きすくめながら、彼女に無数ともいえる口づけを贈り、眦に滲む涙の雫を舐めとった。そして、口づけの合間合間に、途切れ途切れにではあったが、伝えるべき言葉を、真摯に朴訥に彼女に対して紡いだ。
「ありがとう、アンジェリーク…ありがとう…」
すると、アンジェリークの腕が、オスカーの背をきゅっとだき返してきた。
「オスカー…私こそ…ありがとう…オスカーの熱いもので…今、私の身体…溢れるほどに一杯…身体の中から、オスカーの熱が、染みこんで…染み渡って…まるで、身体の真ん中に火が灯っているみたいで…今、すごく暖かくて、幸せ…こんな、暖かさ…私、初めて…」
「ああ…俺の想いのありったけを君に注いだ…受け止めてもらえて、俺も嬉しい…」
「ん…私たち、本当に交じり合えたのね…嬉しい…オスカー、本当にありがとう、愛する人と触れ合う喜びを…こんなにも深く豊かな悦びを、私に教えてくださって…」
心からの感謝と喜びが体の芯からこんこんと湧き出し、それは嬉しい涙となってアンジェリークの瞳から溢れ出た。
多くの方のご尽力のおかげで、私は、昼日中に、体をもつこでができて、オスカーの傍に来ることができて…そして、オスカーと肌を重ねて、交わって、溶け合えて…こんなにも満ち足りた悦びを教えてもらえて…
アンジェリークは、いま、心の底から、信じられないほどの幸せをかみ締め、幸せをわが身に感じる程に、オスカーと、そしてお世話になった方々への感謝の気持ちとが、溢れて、はちきれそうだった。
無事、実体化が果たせた後も、もし、何かの拍子に、光の粒に戻ってしまったら、どうしよう、せっかく、こんなにたくさんオスカーに触れて、触れられて、幸せでたまらないのに…だからこそ、もし、ここで…中途で自分が消えてしまったらどうしよう…そんな不安が、ふと、心をよぎった瞬間がなかったといえば嘘になる。この逢瀬の刻が、多くの方々の支えより生み出された、あまりに貴重で、かけがえのない物だからこその不安だった。二度目があるかどうかわからない、まさに、この一時だけの触れ合いかも、という覚悟を抱えるからこその不安だった。
でも、オスカーの手が、唇が、アンジェリークの不安や慄きを、尽く、優しく取り去ってくれた。オスカーの手は、いつも力強く、愛撫は情愛に溢れ、その振る舞いは落ち着いて、堂々としていて、アンジェリークは、オスカーの温もりを感じるほどに心が落ち着き、安心できた。オスカーは何も恐れていない、不安に囚われてもいない、自信をもって、私を力の限り、愛してくれる気持ちが伝わってきたから…すぐ、私の不安も消えた…私を大事に慈しんでくださるオスカーを前に、私は、消えてしまう筈がない、だって、オスカーも言ってくれたもの、強い決意と心構えがあれば私は消えない。オスカーがくれる愛と私からオスカーへ注がれる愛、その両方が支えになって、私を強固な存在にしてくれるから。そう、心から信じることができたから。
それに、オスカーは、はっきり言ってくれた。これきりになど…この逢瀬を最後になどしない、って。
ならば、オスカーは絶対、そうしてくれる。今までだって、そうだったもの。オスカーは、一度やると決めたことは、絶対、実現なさる、そういう力を持っている方。太陽神になって、約束どおり、私に会いにきてくださったことも、今、こうして、二人、身体を重ね、真実、夫婦として契ることも、そう。強い意志とたゆまない努力で、オスカーは、何事も成し遂げる、そんな方なの、だから、私、もう、不安なんて、微塵もない。オスカーが、私に注いでくれた熱い物が、私を身体の中から暖めて、支えてくれているのだもの。オスカーを愛するほど、愛される程に、私も、強く、揺ぎ無くなれる、ううん、ならなくちゃ、そう思えるの。
アンジェリークは、心から満ち足りた、幸せそうな笑顔をオスカーに向けたが、そのすぐ後で、少しだけ、心配そうにこう尋ねた。
「あの、でも…オスカーは…?……私、何もできなくて……気持ちよくしていただくばかりで、自分から、何も、してさしあげることができなかったから…」
オスカーが、その唇と手で…言葉と触れ方で私に知らしめてくれた、情交とは、互いに愛を分かち合い、愛しさを注ぎあい、想いを傾けあうものだ。互いに与え合い、分け合うからこそ、豊かで深い喜びを生まれるのだと、この肌身で知った、教えてもらった。なればこそ、アンジェリークは『私は、こんなに幸せで、心地よくしてもらったけど、オスカーは、どうなのだろう、オスカーも、私と同じほどに、肌を触れ合い、身体を重ねることを、心地よく、幸せに感じてくれただろうか…』と、アンジェリークは心配になってしまう、だって、私は、自分からは、何もしてあげられなかったから、オスカーは、私を目の眩むような、身体が内側からはじけてしまうような快楽を教えてくれたけど、教えてもらうばかりだったから…。
アンジェリークだって、オスカーに気持ちよくなってほしい、肌を重ね、触れ合って知る幸せを感じて欲しいと思っていた。でも、アンジェリークには、自分からオスカーに触れたいという気持ちはあっても、具体的にどうすればいいのかが、わからない。その上、間断なくオスカーに触れられていることで、あまりに深く強い快楽に頭も心も一杯になってしまい、オスカーからの愛撫を享受し、与えられる官能に妙なる響きを返すことしか、できなかった。オスカーは『焦らなくていい』と、情事に不慣れな私を甘やかしてくれて、それは、オスカーの優しさなのだということもわかる。そして、今、オスカーは、本当に嬉しそうに、幸せそうに笑んでくれているけれど…
「君は、君が、俺に、どれだけ貴重な、嬉しい物をくれたか、わかってない」
オスカーは、アンジェリークの唇を己の唇でくるみこむように口づけてから、こう続けた。
「君は…何とも取り替えの効かない、掛け替えのない思いを、俺にくれた。俺の愛撫を心から喜び、俺自身を熱く欲してくれた、それが、男の俺には、何にも勝る宝なんだ…俺は、交わった時、君に、苦痛を与えてしまっただろう?…なのに、それでも、君は、終始、俺を欲し、俺とのつながりを喜んでくれていた…それが、俺には、すごく、よく、わかって…俺は、君のその気持ちが、たまらなく嬉しくて…」
「オスカー、そんな…心配なさらないで?私、最初、ほんの少し軽い痛みを感じただけ。後はずっと、気持ちよくて…気持ちよすぎて…オスカーを、中で感じると、頭の芯が痺れて…真っ白になってしまって…それで…自分から何もしてさしあげられなくて…私の方こそ、申し訳ないと思っていたのに…」
「まったく、君は、本当に…男にとって、最高の褒め言葉だぜ、それは…」
「え…?」
「ふ…愛の営みで、愛する女に、忘我を極めてもらえたら、男として、これほど嬉しいことはないんだ…俺が君に、喜びの…快楽の極みを送ってあげられたのなら、こんなに嬉しいことはない」
「だって、本当に、あんな、気持ちいいの、初めて…身体はここに、ちゃんと、あるのに…それに、実際には熱くないはずなのに、オスカーは、とても熱くて…あなたの熱で、私、自分が溶けて、なくなってしまうみたいだった…意識があるまま、自分が、ふわりと浮かんで飛んで散っていくようで…そして…最後に、身体の奥に何か熱いものが注がれたら…それが私を内側から暖めてくれて…信じられないくらい、暖かくて気持ちよくて…」
「ああ、俺の精が、君の中に注がれ、溶け込んでいった時、俺も、自身が君の中で溶けて、交じり合ってゆくように感じた…あんなにも、幸福な思いを、俺も、生まれて初めて知った…アンジェリーク、君は…君そのものが俺の宝だ。その君が俺に教えてくれた思いもまた、俺にとって二つとない宝で、俺には何よりも嬉しい贈り物で…それを、今、俺は、同時にこの手にできて、こんな幸せな…こんな嬉しいことはない…」
「じゃ、私たち、一緒…同じくらい、幸せね?私も、今、幸せでたまらないから…オスカーの胸に抱かれて…今も、オスカーが私の中にいてくれて、すごく幸せだから…」
アンジェリークが、嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。幸せな気持は、自ずと感謝の気持ちを伴い、満ち足りた想いが、一層の優しさを生み出す、そんな笑顔だった。
「アンジェリーク…」
その笑顔と言葉に、なんともいえぬ暖かなものが胸の奥から湧き出して、オスカーを満たす。愛しさのあまり、もう一度きゅっ…とオスカーはアンジェリークを抱きしめる。が、すぐ、抱きしめるだけでは、物足りない気がして、脚と脚を絡めて容易に解けないようにしながら、オスカーは、幾度か優しく口づけた
と、アンジェリークが僅かに身じろぎ
「あ…やん…零れちゃう…」
少し残念そうな顔をした。
「オスカーの…今、動いた拍子に、少し、零れちゃったみたい…オスカーからもらったの…全部、私の中に留めておきたかったのに…」
「!…まったく、君は…どこまで、俺を喜ばせたら気が済むんだ…そんな、かわいいことをいわれたら、俺は…」
「あ…なに…?オスカーの…また、大きく?…なった…?」
「ああ、君が、あまりに愛らしく、いじらしいことを言うからだ…」
ちゅ…と、軽く触れるだけの口付けを落としながら、オスカーは、再び、ゆっくりと腰をグラインドさせ始めた。
「あ…あぁ…オスカー…そんな…動いたら…私、また…それに…せっかくの…オスカーからもらったのが…押し出されて…零れちゃう…」
「いいんだ…心配しなくていい、零れる以上に、また、君に捧げる…これから幾度でも…幾らでも、君が望むだけ、たっぷりと注ぎこんであげたい…いや、俺が…俺の方こそ、そうしたい…君に俺の精を溢れるほど放って…君を俺で一杯にしてしまいたいんだ…」
オスカーは、腰の動きを、徐々に早く、力強いものにしていく。
自身の放った精と彼女の愛液が交じり合ったものが、オスカーが、腰を進めるたびに、彼女の秘裂から押し出され、ぐぷ・ぬちゅと、愛液だけの時より、更に、粘り気のある水音を放つ。挿送するほどに、それは滴り溢れて、アンジェリークの身体の下の毛皮をしとらせる。とてつもなく淫靡な香が立ち上る。
軋みや、引っ掛かりが微塵もないほど滑らかな媚肉を、オスカーは、これでもかといわんばかりに己が怒張でかき回し、雁首で擦って、掻き出す。
「あ…あぁ…あん…そんな…擦ったら…また…気持ちよく……ぁあっ……」
「それで…いい…いや…もっと…感じてほしい…」
一度開かれた彼女の身体は、愛液と精の混交物という豊か過ぎるほどの潤いの助けもあって、もう、挿送を、純然たる快楽として、受け取れるようだった。
「いいの?また…もっと…気持ちよくなっちゃって…」
「ああ…心行くまで…俺を感じてくれ…」
この分なら、もう、慣らしはいるまい。時間も、あと少ししか、残されておるまい、なれば、全力で駆けるのみ。
限られた時間だからこそ、彼女が消え行くその瞬間まで、存分に彼女を感じていたい、嫌というほど俺を感じさせたいのだ。
そう思ったオスカーは、遠慮なく、思い切り最奥めがけて、自身を突きたてた。小気味良い弾力に、先端が弾かれる感触に、ムキになったように、更に、力をこめて突き上げる。
「あぁっ…はっ…そこ…や…すご…気持ちい……」
「奥が…いいか?アンジェリーク…」
オスカーは、アンジェリークが乱れる部分を探り、確かめるように素早く小刻みに腰を突き入れる
「んんっ…そこ…響いて…いい…いいの…」
と、先の官能の余韻にたゆたっていたアンジェリークは、オスカーの与える刺激に、響くように反応し、再び高みへと向かい始める。
「なら…もっと奥まで…いっぱい、突いてあげような…」
「え?…あ…ぁあっ…」
オスカーは、いきなりアンジェリークの背に腕を回すと、彼女を、ぐいと勢い良く抱き起こし、自身の脚の上に乗せる形にした。
突然の視点の変化に、自分がどういう状態になったのか、よくわからない。
アンジェリークの気持ちがおいついていけずにいるそのうちに、オスカーは、彼女の腰をしっかり支えなおした上で、思いきり下から突き上げた。
「ひ…あぁああっ…」
アンジェリークの腰が浮きあがって逃げぬよう、その身を思い切りきつく抱きしめながら、オスカーは、素早く、力強い突き上げを立て続けに放った。突き入れるたびに、彼女の秘裂から、粘った音をたてながら、交じり合った二人の体液が溢れてオスカーの脚をぬらしたが、それすらも、オスカーには心地よい。
「あぁっ…また…いっぱい…おなかの奥まで…オスカーで一杯…なの…」
アンジェリークが、頑是無い子供のように頭をふる。なだめるように、オスカーは、アンジェリークに小さな口づけを落とす。
「気持ち…いいか…?」
「ん…いい…もっと…もっと来て…オスカー…オスカーをいっぱい感じたい…」
アンジェリークが、何かに追い立てられているように、オスカーの首元に腕をまわして、抱き縋ってくる。
その華奢な身を、オスカーは倍する力で抱き返ししな、脳天まで貫かんばかりの勢いで、肉の楔を突き刺す。
もう、さほど時間は残っていないだろう、別れの時が、刻一刻と近づいている、そんな気がひしひしとする。そして、だからこそ、オスカーは、遮二無二律動を放つ。一つ一つの挿送に、己の思いを、彼女への情を乗せ、伝えんとするように。
突き上げの激しさに、どんなにしっかりと抱いていても、アンジェリークの身が、オスカーの脚の上で踊るように揺さぶられる。突き上げにあわせて揺れる乳房の先端を、オスカーは唇で捉えて、きつく吸い上げる。
この頃には、目には見えずとも、この閉ざされた客車内に陽光は届かなくても、空で、少しづつ、太陽が力を取り戻しつつある気配が、オスカーには、感じとれた。程なく、月は太陽の表を通りすぎ、半ば以上、太陽がその姿を現したら…その時、アンジェリークの姿は、恐らく、もう…
そんな予感ををねじ伏せんと、オスカーは、力強く、がむしゃらに腰を打ちつける。根元まで飲み込ませたまま、粘つくように腰をぐりぐりと回す。男根の先端で、突き刺すように、容赦なく最奥をえぐる。
「ひぁっ…あぁっ…はっ…」
「アンジェリーク…愛している…アンジェリーク…」
「オスカー…私も…好き…好きよ…あぁっ…」
思い切り揺さぶり、力の限り突き上げる。骨が軋むほど、抱きしめながら、噛み付くように口付け、芳しい吐息ごと、彼女の愛らしい囀りさえも飲み込まんとする。
このまま永遠に彼女をこの腕の中に閉じ込めておきたい、こうして、彼女と分ち難くつながったまま…彼女を俺の楔で、俺にに縫い付けたまま、溶けて混じって、離れられなくなればいい…
「オスカーとつながったまま…このまま…とけちゃいたい…」
と、オスカーの胸中をそのまま写しとったような言葉を、苦しげですらある喘ぎの中、すすり泣くように、アンジェリークが訴えた。
「アンジェリーク…」
夜明けの女神である彼女も感じているのだ、陽光が、徐々に力を取り戻しつつあることを。だから、その身が震えるほど懸命に、すがりついてくるのだと、オスカーにも痛い程にわかった。彼女の、その気持ちが、嬉しく、切ない。
オスカーは、募るやるせなさを振り切るように、何かに取り付かれたように、ひたすらに彼女を突き上げ、力の限り抱きしめる。俺は男だから…火の男だから、彼女を力の限り愛し抜き、官能の愉悦を極めさせてやることで、来るべき一時の別れの不安を彼女から拭い去る、それが、俺にできる精一杯のことだから。
そんな思いの込められたオスカーの律動に、アンジェリークの濡れた唇からは、もう、意味のある言葉はでてこない、それこそ、火のつくような吐息を、忙しなく、途切れなく零れ出る。挿送するほどに、オスカーの身の内にも、開放の衝動が荒ぶり、こみあげてくる。
「いく…ぞ…」
「ん…来て…オスカー…いっぱい…また、いっぱい…ちょうだい…」
「ああ…いっぱい…一杯、俺をやるからな…アンジェリーク…溢れて、零れるほどに…」
「嬉し…」
これでもかといわんばかりに渾身の力で突き上げた、その瞬間に、放った。二度目ゆえか、射精の時間は、引き延ばされたように、長く感じられ、その分、先刻のように、眼前が真っ白になるほどの酩酊はなかった。が、オスカーは、その方がむしろよかった。 性愛の悦びを極めるアンジェリークの様子をしっかり見守ることができるから。
オスカーの精を再び受け止めたその刹那、アンジェリークは軽く唇を噛んで切なげに瞳を閉じ、小さくのけぞった。が、オスカーに注がれた熱が、身中に染み渡りゆくほどに、幸せな夢を見ているかのような、満ち足りた笑みを口元に浮かべた。
と、オスカーの火のように熱い精が身に溶け行くのを待っていたかのように、アンジェリークを象る輪郭が、見る見る朧に、あやふやになっていった。しなやかな指の先、愛らしい巻き毛の一房から、あっと思う間もなく、彼女の体は無数の金真珠の光の粒に戻って、中空へと飛散していく。
わかっていたことだった、覚悟もしていたつもりだった。つながって、結ばれて、溶け合った末での一時の別離なのだと、自身に言い聞かせていたつもりだったが、己の掌中から、何より大事な存在が、消えていく。どんなにしっかり掴もうとしても、手で砂金を掬うように、指の間から、彼女という存在が、虚しく零れて失われていく、その喪失感は筆舌に尽くしがたい。
しかし…オスカーは自身を叱咤する…本当に不安なのは、心細いのは、俺ではない、今、大気に溶け行き、世界の全てに散らばり広がりゆくアンジェリークのはずだ。俺がなすべきは、何より、なさねばならぬのは、彼女を安心させてやること…
「アンジェリーク…愛している!アンジェリーク…」
「オスカー…私も愛している…そして…ありがとう…」
オスカーは溢れそうになる涙を必死に堪えながら、それでも、心からの愛情と感謝を込めて、笑みをなげた。
「また…明日の朝に…」
「ん…明日の朝には会えるんですものね…だから…寂しいって言わないわ…」
「ああ、それに…俺たちは、また、ここで会える…会えるようになる、絶対に…その時、俺は、君を思い切り抱く…約束する…」
「ええ…約束…ね…」
その言葉は、厳かな誓いだった。
その言葉の残響も消えぬうちに、オスカーの腕の中で、アンジェリークは、瞬間、眩いほどの笑みをなげながら、そして自身は朱金の光の粒となって、かき消えていった。
その中空に消え行く光の粒が、僅かながら、炎の朱の色を濃くしているように見えるのは、俺の錯覚か…僅かにぼやけて滲んだ視界が見せる幻なのか…いや、そうではあるまい、そう信じたい…。
月の影から、太陽が完全に姿を現した、その瞬間のできごとだった。
軌道交差は終った。而して、二人の逢瀬の時間もまた。
彼女を見送り、身支度を整えて御者台に戻ると、今しがたの逢瀬の刻がとびきり濃密に甘い記憶となって薫り立ち、だからこそ、どうしようもない寂寥もまた、こみあげそうになった。が、オスカーは、強く意識して、己を奮い立たせる。あの幸せな時間を、内から生じる寂寥で損なってはいけないと。彼女を心配させるような心弱い真似はするなと。だって、今も…目には見えず、かき抱くことはできずとも、彼女は俺の傍にいる。太陽の馬車を駆る間中、彼女の一部は、常に俺の傍に佇み、寄り添い、俺を包み込んでくれている。そして、俺は、また、明日の朝には、今日よりもっと美しい彼女にまみえる、ならば、何を嘆くことがあろうか、と。彼女は、幸せと喜びに満ちて光の粒に還っていった、彼女の精神は、新しい悦びを知って満たされこそすれ、何ら損なわれるようなことはなかったはずだ。再生が危うくなる恐れはないと言い切れた。
オスカーはしゃんと頭をあげて背筋を伸ばした。そして、放出しきった後の気だるさを押して、火の馬たちには、たっぷりと火の気を与えた。馬たちの予想以上に落ち着いた足並みがなければ、アンジェリークとの逢瀬は、もっと、ずっと、あわただしく、忙しないものになっていただろうことを思うと、いくらでも褒美をやりたい気になった。
それに、オスカーは、アンジェリークに断言した通り、彼女との逢瀬を、この一度きりで終らせる気など毛頭なかった、だからこそ、軌道交差時、命じられた通り、月と足並みをそろえられれば、飛び切り多くの火の気を与えられる、それこそ、驟雨のように…という快感原則を馬たちに覚えこんでもらいたい。
その合間に、地上を見やった限りでは、民の間に、特に大きな混乱や浮き足立った様子は見うけられないようだった。地上の様子は、むしろ、いつもより、静かなくらいだ。いや、これから、賑やかしくなる、といったところか。見れば、太陽の光輝が完全に戻ったことで、民達は、三々五々に、少しづつ戸外に現れ、それぞれに生業に精を出し始めていく。徐々に街に活気が戻り、田畑に耕作人の姿が増えていく。民達は、太陽が姿を隠していた間、それぞれに、己の住処で、軌道交差を静かに見守ってくれていたのだろう。スーリヤとウシャスの契りが無事済んで、安堵して、活動を再開したのだろう。サヴィトリとプーシャンのプロパガンダは功を奏した様子に、オスカーも、また、安堵した。
地上の生き物たちのためにも、最後のスーリヤになると決めている俺が、地上の生物に不安や恐れを与えてしまっては本末転倒だからな、全ての生き物たちのために、という俺の決意も、ヴァルナ神に、口先だけのおためごかしと思われてしまっては、元も子もない…
しかし…太陽の一時的な欠損を目にして、流石にヴァルナ神は、俺の…俺たちの企図に気づいたはずだ、となれば、西の神殿で、俺のことを待ち構えているやもしれぬ。
それを考えても、オスカーは、憂鬱にはならなかった。遅かれ早かれ、真っ向から対峙せねばならない、そして、正々堂々と、認めさせねばならない相手なのだ。
オスカーは、ヴァルナ神に咎められるようなー言い換えれば天則に反するようなことは、一つもしていない、自身は、むしろ、胸を張れることを成し遂げたと言い切れるーヴァルナ神が待ち構えていたとしても恐ろしくはなかった。
俺はアンジェリークと共に歩み、より深い愛を育み、この、数多の命溢れる輝かしい世界を守っていくと誓いをたてただけだ。そして俺にはアンジェリークがいる。恐れるものは何もなかった。
夕刻まで馬車を操り、西の神殿にたどり着いた時には、情事の後の気だるさは、かなり、薄れていたと思う。
そして、西の神殿に帰着したオスカーを、月神ソーマが出迎えた。他に人影はなかった。
ヴァルナ神の手の者らしき者が見当たらないことが、オスカーには、正直、意外だった。
馬車を降り立ったオスカーは、即座にソーマ神の前に恭しく跪き、心からの感謝を示し、最大限の礼を尽くした。
「ソーマ様、ありがとうございました、ソーマ様を始め、多くの神々の助けをお借りできたことで、俺は…俺とウシャスは、無事、婚姻の契りを交わすことができ、真の夫婦となることができました、これもひとえに…」
西の神殿に帰着後、ヴァルナ神に拘束されることなくば、ソーマ、ミトラ、トバシュトリには、何を置いても、真っ先に礼の言葉を奉じに参ろうと心に決めていたオスカーだったが、その挨拶に向かおうとしていた当の相手の方から、直々に出迎えられてしまい、恐縮の極みという気持ちだった。と、ここまで謝辞を述べた処で、オスカーの眼前にソーマの手が差し伸べられた。
「親愛なる兄弟神にして、百神の王スーリヤよ。顔をあげたまえ。太陽の様子をつぶさに見守っていた俺たちには、よく、わかっていたよ、全て、ことは上手く運んだのだとね。なればこそ、スーリヤ、いや、オスカー、百神の王である君が、正式に妻を娶ったこのめでたき日に、膝をつくことはない、いや、ついてはいけないよ。もとより、俺には、堅苦しい挨拶はいらない。俺が、君を出迎えたのは、新妻を娶った君が、満ち足りた愛の交歓の後、どれほど男ぶりを上げたことか、からかいがてら、おめでとうを言いにきたからで…君から礼を言われるためではない。しかし…幸せな情事の後の少し気だるげな君は、まこと、見甲斐のある男ぶりだ、出迎えた甲斐があったな」
若干のからかいを含む朗らかな笑みと祝福の言葉、それと共に差し出されたソーマの手をオスカーは素直に受け取り、立ち上がった。と、オスカーの手を預かったソーマ神が、一瞬「おや?」という表情をし、そして何か眩しいものでも見るかのように、目を細めて、背筋を伸ばした青年神を見つめた。オスカーは、月神に眩しそうな眼差しで見られることが、大層、照れくさかった。俺は、幸福な情事の後特有の駘蕩な空気を、そんなにもあからさまに匂わせているのか、でも、それも当然かもしれない、めくるめく歓喜とこの上ない充実、あの一時は、何物にも替えられない至福であり、至高の宝でもあったのだから…そう思うと、オスカーは、誇らしくもあり、気恥ずかしくもありという心持ちだった。朗らかで屈託のないソーマのからかいの言葉もあいまって、頬を染め、こう、抗弁した。
「そうは、おっしゃられましても、ソーマ様、今の俺があるのは、諸神方のご尽力あってこそ…」
「まあ、礼儀正しく、義理堅い君なら、そう言うだろうと思っていたよ。この後、俺やミトラ、トバシュトリに対し、個々に挨拶に赴こうなどとも、考えていたのではないか?」
「当然のことです」
「やはりな、それもあって、ここに俺は来た。繰り返していうが、堅苦しい挨拶や謝辞はいらない、ああ、これは、俺個人の見解ではなく、ミトラ、トバシュトリも同様の考えであると、付け加えておこう」
「なんですって?」
「いいか、オスカー、元々、俺たちは、それぞれにそれぞれの考えあって、君たちに協力したいと思ったから、協力した。自分たちが、それが良いことだと考えたから、そうした、それだけだ。たとえ、君に平身低頭されて依頼されても、理のないこと、納得できないことなら、協力などしなかった。言い換えれば、君に協力したのは我々自身の意思だ、だから、君が必要以上にへりくだる必要はない」
「しかし、ソーマ様…」
「さっきも言ったが、太陽の様子から、何もかも、上手くいったことは…君たちが、いかに深く豊かで喜び溢れる愛の時を持てたのかは、よくわかっている、そして、それさえわかれば、俺たちには十分なんだ。トバシュトリのヤツなぞ、装置が最初から最後まできちんと動いて、熱量の吸収と、その後の解放が無事始まったのを見届けるや、それで満足して、さっさと最下層に帰ってしまったしな。そのまま最上層にいたら、君からの謝辞を避けられないと見越して、それが照れくさくて、早々に逃げだしたのだと俺は踏んでいるがね。ミトラも、ヴァルナと多少の丁々発止は繰り広げたらしいが、君の先見のおかげで、大して消耗した様子もなかったしな。そうそう、君の親友であるサヴィトリとプーシャンも、流石に疲れたのだろう、天界に戻って私の神酒を喫するや、あっという間に寝いってしまったしね。それで、俺が、君のほうから足を運ぶには及ばないよと言いに、此処に来たんだ。大仰な礼の言葉を言われるようなことはしてないからな」
そういわれて『はい、そうですか』と納得できるはずもないオスカーが、更に抗弁しようと口を開きかけたのを、ソーマ神は掲げた掌で制した。
「といっても、君は、納得しないだろうな、俺たちの思惑はどうあれ、君は自分が実際に助けられた以上は、感謝を示し、礼を言うのは当然と考える男だということはわかっている」
「そこまでおわかりなら…」
「だからな、オスカー、君が、我らに対し、どうしても、何某か礼を尽くしたいというのなら、雨季に入ってから、君たち夫婦が仲睦まじくやっている様子を二人揃って、我らに披露しにきてくれたまえ、君とウシャスが、幸せで満ち足りていることがわかれば、それが、我々には何よりの悦びだし、ゆっくりと歓談するなら、雨季に入ってからの方がいいだろう?そういうことで、俺たち3人の意見はまとまったんだ」
「!…ソーマ様…」
オスカーは一息、深呼吸をして、大きく天を仰いだ。不覚にも、涙がこぼれそうになっていた。
「俺は…なんとお礼の言葉を申せばよいか…」
己が積年の思いは成就した、が、それは、多くの協力者の助力なくしては、決して、叶わなかった夢でもあった。それがわかっているから、オスカーは、彼らに礼を尽くして謝辞を捧げるのは当然と思っていた、ソーマに指摘されたとおり、こちらから、即刻、出向くつもりでもあった。なのに、ソーマは、雨季に入ってから、幸せな二人の様子を見せにきてくれれば、それでいいという。その言葉で、オスカーは確信した。彼らは、俺たちが交わした愛によって、ウシャスがより確固とした存在になると心から信じてくれている。だからこそ、その様を見せてほしいと言ってくれているのだ。その信頼なくして、こんな言葉が出るはずもない。諸神の気持ちに、オスカーは、更に感謝の思いが募り、感情の箍が緩んで、思わず落涙しかけた。
『どうにも、感情の制御が利きにくくなっている、今の俺は、多分、この世界一の感激屋かもしれんな』とオスカーは思う。
が、ソーマ神は、こう言ってくれたものの、オスカーには、それでもソーマの気遣いをそのまま甘受するわけにはいかない、もう一つの理由があった。
「ですが、俺がお礼を申し上げに参りたいと思いましたのは、ご迷惑をおかけするかもしれないというお詫の気持ちもあってのことなのです、俺に協力したことが明らかなソーマ様やミトラ様が、ヴァルナ様から、どんなお咎めを受けるか…俺が、俺1人の判断で無理に協力をお願いしたと申しても、その言をどこまで汲んでいただけるかもわかりませんし…」
と懸念するオスカーに、ソーマ神は、見る人が理屈ぬきで安心するようなおおらかな笑みを浮かべ、こう続けた。
「そんな心配は、それこそ無用だよ。まあ、この後、ヴァルナとラートリーが、なんやかやと言ってくるかもしれんが、俺は…というか我々は、その件に関しては、あまり心配していない」
「ですが、先ほど、ヴァルナ様は、ミトラ様とやりあったとおっしゃってました、ということは、やはり、ヴァルナ様は俺たちの逢瀬の妨害を試みられたのですね?となれば…」
「ああ、それは事実だ。だが、今のところ、俺やミトラに対し、ヴァルナからはお咎めどころか、呼び出しもない。ミトラによると、軌道交差が終ると、ヤツは、何も言わずに自分の宮に引っ込んでしまったらしい。それから、不気味なくらい静かなままだ」
「一体、なぜ…」
「多分だがな、論より証拠とか、百聞は一見にしかずってのを身をもって感じたせいじゃないかと俺は思っている」
「?」
「もし、ヴァルナから、何か言われたら…糾弾されたらどうしようと、心配かい?オスカー」
「とんでもない。俺自身に関しては、滅相もないことです。俺は何一つ、やましいことはしちゃいない。俺は、アンジェリークを幸せに…いや…二人で幸せになると誓いあい、その誓いを、実践しただけです。それに俺たちの幸せは、多くの生き物たちの幸せにも通じるし、何より、アンジェリーク自身が、俺と愛を交わすことに幸福と喜びを訴えてくれた。ヴァルナ様に、お咎めを受ける謂れは、欠片もありません。それに、彼女の支えがあれば、俺は誰に何を言ってこられようと、決して負けないし、退かない。アンジェリークの幸せを守るのは、自分だという自負がありますゆえ…」
『アンジェリーク、君がいれば…君の愛があれば、俺は何でもできる。君の愛と存在あってこそ、俺は真の百神の王となれるんだ…』と、心の中で付け加えながら
「そうか」
オスカーの言葉に、ソーマ神は、幾度も頷きながら、嬉しそうな、満足そうな笑みを浮かべた。
が、オスカーは、自負と矜持に溢れた宣告で言葉を終らせず、静かに、少しだけ躊躇いがちにこう続けた。
「ただ…」
「ただ?」
「俺と、ヴァルナ神やラートリー女神がアンジェリークを大事に思う気持ち自体に、差や優劣があるわけではありません。彼らは、彼らなりのやり方で、この上なく、ウシャスを大事に、大切に慈しんでくださってきたことは、わかっていますし、彼らがウシャスを守ってきてくれたからこそ、俺は、彼女に出会えた、心から感謝せずにはおれません。ですから、力で屈服させるように彼らを論破するのではなく、俺としては、ウシャスの真の幸せが何か、どこにあるのかを考えてもらい、自分との仲を納得してもらいたいとも考えています。特に、今頃、ヴァルナ様は…明日の未明に、ウシャスがいつも通り再生できるか、そして、夜明けの儀式を経た後、また、その翌日も、無事、再生叶うか…恐らく、心配のあまり、胸が潰れそうなお心もちでいらっしゃると思います。なので、ウシャスの存在は、何ら損なわれてはいない、何も心配はいらないと、お知らせして、安心していただきたいとも思うのですが…俺が、そう言っても、今は、信じてもらえぬでしょうね。ウシャスの無事を、ヴァルナ様がご自身の目で確かめるまでは…」
「まったく、君は…限りなく強い男は、限りなく優しくなれる、という見本だな。そこまで考えが及んでいるなら、何の心配もない、と、尚のこと、私には思えるね、ヴァルナの心痛は…まあ、そうだな、誰の、どんな言葉をもってしても、今の彼の不安を溶かすことはできないだろう、が、それは、明日の朝になれば、自ずと解けるものでもある、それこそ心配いるまい。ああ、いけない、忘れるところだったよ、今日のお祝いに、君に特製の神酒を持ってきてあったんだ」
ソーマが手をあげると、西の神殿付きの神官が、飛ぶようにやってきて、杯を差し出した。
「君たち夫婦の輝かしき喜ばしき契りの時を寿ぎ、心よりの祝辞を捧げよう」
言いながら、注がれた神酒を、オスカーは一気に飲み干した。
いつもの神酒より、若干、淡めの味わいだが、その分、喉への通りが良く、鮮烈な芳香が喉から鼻腔に突き抜けるように感じられる、清新な果実味の溢れる酒だった。
そして、胃の腑へと神酒が滑り降り、染み入る感覚を覚えるや、オスカーは猛烈な眠気に襲われた。
自分でも、いつもより消耗している自覚はあった。太陽の運行自体は、通常通りこなした上で、アンジェリークと契りを結び、また、火の神馬たちには、褒賞と労いのために、たっぷりと火の気を与えていたから。
それにしても、この疲労困憊?脱力?いや、違う…何か、抗いようのないこの眠気は一体…
「これは…この神酒はもしや…」
と思った時には、オスカーの身体がぐらりと傾きかけ、それより早く、西の神殿の傍使えたちが、今日の勤めを終えた太陽神の玉体を恭しく支えて輿に乗せた。これからオスカーは正装を外され、身を清められて後、東の神殿の彼の宮で、一時の安息を得る。今日の日中、何が起きたかをまだ知らぬラートリーは、夜の安息を、スーリヤに惜しみなく与えるはずだ。明日も、スーリヤに、いつものように、終日、太陽をつつがなく御させるために。世界のためにこそ、それは、必要な安息であるから。
「君は、俺に、たばかられた、と思うかもしれんな。だが、こうでもしないと、君は、やはり、それでも一言、皆に礼を言いにとか、ヴァルナを安心させに行く、とか言いだしかねない。が、日没後の世界は、ラートリーの領分だ。常ならぬ君の振る舞いは、彼女の目を惹きつけかねない。夜のラートリーの万能・無敵を思えば、用心深く振舞うにこしたことはないのでね」
ラートリーは、夜間休息を取る生き物たちには、分け隔てなく、安らかな眠りを与える、心優しき女神だ。夜、眠っている生き物にはーそれが太陽神であっても、彼らが眠っている限りは、この上なく慈悲深く扱ってくれるはず、いや、そうせずにはいられないのが、夜の女神なのだ。
加えて、夜の女神は、その美貌同様に怜悧で冴え渡った知性の持ち主だが、いかんせん、ウシャスに関してのみ、理屈や道理より、己が感情を優先させる傾向がある。
なればこそ、スーリヤをー無論、彼の友人であり同僚でもある太陽亜神2柱もーさっさと眠らせて、その身柄を東の神殿に連れていってしまった方が安心だと、ソーマは考えた。日没と同時にラートリーは目覚めている筈だし、今日の昼日中に、何が起きたのか、わざわざラートリーにご注進するお節介な仙や神官が、いないとは限らない。そして、もし、夜間にスーリヤの気配を感じようものなら、感情的になった万能・無敵の夜の女神が、大事な姉妹神に手を出した男に、どんな鉄槌を下そうとするか…それは、誰にもわからない。
無論、この危険性を説諭すれば、オスカーは理解して、即刻神殿で休息に入ったろうが、ソーマは、その説明する時間も惜しかったし、危ぶんだ。だから、有無をいわさずオスカーを眠らせてしまった。
休息に入り、なおかつ、東の神殿に運ばれてしまったスーリヤには、ラートリーも、手が出せないー出す気も起きない筈だから。スーリヤの意識を失わせて、ラートリーの目からは見つけにくくした状態で、さっさと神殿内に連れ去ってしまう方が、安心だと、ソーマは考えたのだ。
『それにな…これこそ、お節介だが…若い君のことだ、ウシャスの柔肌を思い出して、一睡もできないと、明日の業務に支障がでかねない、だから、神酒に導眠の効能を加味しておいたんだ』
普通の夫婦であれば、初めての契りの夜、一晩中でも愛を交わしあうこともあろうに、君たちには、それは、まだ遠い夢だ。知り初めたばかりなのに、味わい尽くすにはまだ足りなかっただろうウシャスの肌の温もりを思い起こして、君はため息で眠れぬ夜を埋め尽くすかもしれないと、老婆心ながら案じられてね。俺には覚えがあったから…飽きるほど触れあい、抱きしめあいたいと思っても、それが中々に叶わぬ相手を思う時、男がどんな心持ちになるかを。それで、少し、お節介をやかせてもらったよ。俺は、君ほど重要な仕事を担っているわけではないから、眠れない夜があっても、大して困らなかったが、太陽の馬車が君の気力不足で道を外したりしたら、大変だからね…
けど、不可能と思われた願いをかなえた君のことだ、いつか、ウシャスと普通の夫婦のように暮らせる日を招きよせることすら、できるかもしれない。が、なればこそ、今は、眠りたまえ。何にも負けぬ鋭気を蓄えるためにもね…
オスカーを乗せた輿が、東の神殿に向かい出立する様を見届けると、ソーマ神は己の仕事に戻った。
今日の日中は、太陽の様子を見守ることで、仕事が手につかなかった。一度、軌道交差が始まったら、月の影に隠れた太陽の放つ光彩に目を奪われ通しで、神酒の醸造をすっかりお留守にしてしまっていたからだった。急ぎ、必要な神酒を醸さねばならない。
それに加え、懸念していたヴァルナの激昂が、今のところ、ない、となれば、もう一つの懸念材料はラートリーだからだ。
今、スーリヤを神殿に運びいれてしまえば…少なくとも、明日の夜明けに、ウシャスと直に顔をあわせるまでは、ラートリーがことの次第を知る機会はなかろうから、今夜は、彼女は静かなままだろう。ラートリーが騒ぎ出すとすれば、明朝の夜明けの儀式で、雰囲気が一変したウシャスと顔をあわせて、何かを察したその後だろうから…明日はラートリーを宥めたり、すかしたりで、忙しくなるかもしれない。それを思えば、前倒しで、なすべき仕事を片付けておいたほうがいいし、となると、今夜は、夜通し、酒を醸さねば追いつかんな…
が、ソーマは、それが全然苦ではなかった。一つのことを成し遂げたという確かな実感があった。己が宮に急ぎ向かう道すがら、こんなにも大きな高揚と達成感を味わえたのは、数千年ぶりのことかもしれない、と思うと、スーリヤに対して礼を言うのは、俺の方だな、我知らず苦笑していた