その日、風が、吹いた 1

彼女との出会い自体は偶然だった。

俺は、サカの男なら誰でもしたであろうことをしたに過ぎなかった。サカは女を大事にする。ましてや同族の女が賊に襲われていれば、助けるのは当然のことだ。その時も考えるよりも前に身体が動いた、それだけだ。

だが、その助けた女から共闘を申し出られた時は、正直、驚いた。話を聞いてみれば、確かに俺たちの目的は同じだったー俺にとっては雇い主、彼女にとっては援助者になってくれそうなアラフェン候を救い出すことだった。が、傭兵である俺が候を救い出すのを、彼女は安全な場所で待っていたっていいはずだ。だが、彼女は、そうはしなかった。

彼女は、候の受難は自分に関係のあることだからと言いー後からわかったことだが、アラフェン候はキアラン候領の跡目争いに巻き込まれる形で城に囚われたのであり、彼女は、その、キアラン公家の血を引くものだったからだー責任を感じて、候を助け城を取り戻す協力をしたいと申し出てくれた。

彼女の責任感と義心の篤さ、戦いを恐れぬ毅然とした様子に、俺は、確かに、サカの、分けても長たる者の心構えをー俺の持つ気構えと似た物を見出した。彼女の外観は、生粋のサカにはみえなかったが、自ら名乗った通り、彼女がサカの族長の娘であることは、間違いないように思えた。

が、俺が真に瞠目したのは、彼女とアラフェン候のやり取りを聞いた時だった。

俺は、その時、色々なことを耳にしたがー彼女がサカの一部族・ロルカの族長の娘であると、同時にキアランの公女であることや、たった1人の肉親であるキアラン候に会いにいく途上であったことなどー彼女の身の上より何よりも、俺の心を強く揺さぶったのは、彼女があくまで誇り高きサカとして振る舞い、その矜持を守り抜いたことだった。彼女のこれからの旅路の困難を思えば、アラフェン領を抜けるまでの道中の保証が、あるのとないのとでは大違いのはずだ。が、彼女は矜持を売リ渡して、利を得るような振る舞いを良しとしなかった。困難を避けるために、迎合もへつらいもせず、サカの誇りを貫き通した。

彼女の誇り高き振る舞いに、俺は、気高きサカの魂を見た、そして、故郷を離れて久しい俺に、サカの精神を体現した彼女の言動は、どれ程、眩しく映ったことだろう。

俺は、彼女への助力と同行を申し出た。

この誇り高いサカの女の力になりたい、たった一人の肉親に会いたいという願いをかなえてやりたいと、心の底から強く思った。

俺は、方々の領地で傭兵として戦いの技量を磨き、力を蓄えている途上だったが、それゆえ、このアラフェン領に拘り留まる理由もなかったー戦いの技は、いつでも、どこでも磨けるし、精進はどこでもできる、彼女の目的地まで同行し、彼女を守りながら戦うことに、問題はない、と考えた。

だが、いや、だからこそ、キアラン領に彼女を無事送り届けた後は、俺と彼女を繋ぐものは、消失した。

彼女は、キアランの公女として、リキアの地に根を下ろすのだろう、サカの誇りは忘れずとも、現実には、もう草原に戻ることはあるまい。ロルカの民は既に四散してしまっているし、彼女の肉親は、ここリキアにいるのだから。

そして、一方、俺には使命があった。どこで、どのように、その宿命と出くわすかわからないがーその時が来れば、それとわかると呪い師に言われていたーその時まで、俺は力を蓄えなければならない。だから、俺は、彼女に一言も告げず、別の領地に旅立った。名残惜しいという感情を自分が意識せぬうちに。同時に、傭兵としてこのキアランに留まってくれという要請を彼女の口から聞かずに済むうちに。

俺と彼女の運命は、一瞬、交差したが、これ以上、重なる処はない、これから、彼女は地に根を張る民になるのだから、もう、二度と会うことはあるまい。だから、俺は祈ろう、どうか、祖父の許で幸せにと…。

少しでも、俺が彼女の力になれたのなら、よかった。そう、自分に言い聞かせながら、俺はキアランを後にした。

再び、彼女にまみえる日が来ることなど、想像だにしなかった。

 

* * *

 

リキア同盟は、所領持ちの諸侯たちが寄り集まって成り立っている国だ、統一王朝はなく、絶対君主も存在しないので、国としての方針は、諸侯たちの合議で決められる。そして、リキア諸侯が同盟を結んでいるのは、個々では、隣接する二大国に対抗しえないからという、極、実利的な理由が最も大きい。ために、同盟国とはいっても、領主同士に私的な親交のある2、3の領地を除けば、諸侯たちの間に連帯感は乏しく、彼らは各々、己が領土の保全と拡充を最優先とする傾向が強い。だから、同じリキア同盟内にあっても、領境の砦は、どこも最前線だ。領地拡大の機会を虎視眈々と伺う野心篤き領主は無論のこと、穏健な諸侯にしても、己の領土が、いつのまにか隣接諸侯に掠め取られ、知らぬうちに併呑されていたなどということのなきよう、領境の防備には、かなりの力を注ぐのが普通だ。

リキア同盟特有のこの事情ゆえ、リキアは、いつでも、どの所領でも、傭兵の口に事欠かない。騎士の数は限られているし、平民あがりの一般兵ばかりでは防備に心もとないから、即戦力となる傭兵は、どの領地でも歓迎される。待遇も悪くない。

力を蓄えたいラスにとっては、リキア同盟のこの内情は、ありがたいことだった。キアランを発った後、オスティアの領境の砦で、ラスが傭兵の職を得ていたのも、偶々、ここに防衛隊長としての職があったから、単純にそれだけだった。

そしてこの1年、ラスは、領境の宿命として、折々に受ける賊の侵入を確実に退け、この砦を守ってきた。

傭兵は、下された命を黙々と忠実に果たすのが仕事だ、だから、敵が誰であろうと、どんな命であろうと、出撃の要請に、動じることはなかった。

ただ、その日受けた奇襲の知らせは、少々特異だった。砦内に賊の侵攻を許すこと自体、珍しかったが、偶々、この時、砦に、オスティア候の縁者とその客人という高貴な身分の者が立ち寄っていた。ラスたち傭兵隊は、この賓客たちを賊の手から守ることを最優先に命じられた。

その賓客の名を耳にした時、ラスは、己が耳を疑った。それが自分の良く知る女の名であり、なおかつ、ここオスティアで聞くはずのない名前だったからだ。

まさか、と思った。俺の知っている彼女なのか?

彼女の名は、リキア貴族内では、同名の者も多くいる一般的な名なのか、それなら、同名の別人ということもありうる、が、それが、ラスにはわからない。

それでも、ラスは、無意識の内に見知った顔を探していた。半信半疑で、己の記憶の中にある女性の姿を見出そうとし、そして、すぐさま、そんな自分を自嘲した。彼女は、もう、リキアの公女だった、今、耳にした名が、たとえ俺の知る彼女本人だとしても、もう、別れてから1年も経っているのだ、彼女は、サカの衣を脱ぎ捨て、ドレスをまとうリキア貴族の姫となっているだろうに…なのに、この戦場で、サカの女戦士を探しても、みつかるはずがないではないか、と。

なのに…ラスは、今度は、己の耳だけでなく、目までも、疑ってしまう、が、草原の民は、驚くほど遠目が効くのだ、間違うはずもない。狭い砦内の戦いは敵味方が入り乱れ、見通しが悪かったが、その中に、よく見知った顔…間違いようのない姿が、ラスの視界に浮き上がるように見えた。

彼女は、ラスの記憶そのままの姿だった。別れた時と全く同じーサカの女戦士の装束に身を包み、濡れたように艶やかな濃緑食の髪をたなびかせ、鋭く流麗に細身の剣を振るって、襲い来る敵を打ち払う…そんな彼女の姿が、ラスの目に、鮮やかに飛び込んできた。

以前と寸分変わらぬ彼女の姿を目にした時、ラスは、己の心が激しく揺さぶられた気がした。彼女が変わっていないことに驚愕と同じ程に安堵の思いを、そして、それ以上に強い喜びを…体中に震えが走る程の深く激しい喜びを感じている自分に気づいた。

彼女は、全く、リキアの公女然としていなかった。別れた時と同じように、サカの戦士としての魂も技量も、そのままに保っているように見えた。彼女の外観が、印象が、己の記憶と寸分も変わっていなかったこと、それがラスには何より嬉しかった。

が、なればこそ、気になった。

何故、キアランの公女として、かの地に根を下ろしたはずのお前が、サカの戦装束で、オスティアの、しかも領境の砦で戦っているのか。公女であるお前がー深窓の姫になったはずのお前が、何故、余所の領地で、自ら剣を振るっているのか。

ラスが思いついたのは、彼女が引くサカの血故に、またも、跡目争いに巻き込まれ、リキア同盟の中でも強国のオスティアに援助を求めてきたのか、という可能性だった。

剣戟と怒号が錯綜し、混乱する戦場で、ラスは、必死に彼女の方へ向かう、彼女の事情を知りたくて。すると、彼女も、また、己のいる方に…俺の姿を見つけたのか?…向かってくる敵をなぎ払い、懸命にこちらに来ようとしてくれているのが、見て取れた。

だからこそ、漸く、彼女の間近にたどり着けた時ー彼女は彼女で、危険を押して、自分のいる方に向かってこようとしていたのが、その動きからはっきりとわかったーラスは、彼女を目の前にして、胸にこみ上げくる熱い何かを感じた。が、ラスは、その何かを押し殺し、まず、真っ先に件の懸念を尋ねた。「また、誰かに狙われているのか」と。

が、久方ぶりに出会ったキアランの公女は…リンはラスの姿を、乾いた者が水を求めるような、切実な瞳でみつめ、ラスの近況を尋ねた後は、ラスのことを懐かしがるばかりで、己の窮状を自らは全く訴えようとしない。

余所の領地で戦いを仕掛けられているおまえが、窮地にあることは明らかなのに、おまえは、知己の俺に会っても、自分から「助けてくれ」とは口にしない。俺が、この砦で傭兵をしていたと言ったから、俺を巻き込んではいけないと、考えたのだろうか…まったくもって、おまえらしい。

俺のことを「変わらない」といい、酷く懐かしむお前の方が、よほど変わっていない、外観だけでなく、その心もまた。この一年、キアランの公女として過ごしてきただろうことを思えば、奇跡のように、お前は、以前と同じサカの魂を保っている。ただ、同胞である俺との再会と無事とを喜び、俺の安否を気遣う様子を見せる、純朴で情と義に篤い、まさしくサカの女だ、「ロルカのリン」と呼ぶに相応しい…。

そんなおまえだからこそ、俺は…

そう思った時はもう、自然と口をついて出ていたのだ、「俺の手は必要か」と。

「必要ない」と言われる可能性も、その時は、どうするつもりだったのかも、ラスは、考えていなかった。ラスは、彼の差しのべた手を、リンが受け取ってくれると信じ、同時に、祈っていた。

だから、リンが、縋るように、真剣な瞳でラスを見つめ「力を貸して」と懇願した時、ラスは、自分でも、戸惑うほど、強い安堵の思いと、歓喜に心震わせた。そして、喜びを感じている自分を知って初めて『ああ、俺は、こんなにも、おまえに必要とされたかったのだ』と気づいた。

「また、後でな」と、間もなくの再会を約束する言葉を、当たり前の挨拶として、リンに告げられる、そのことも、ラスは、妙に嬉しかった。

そして、この小さな戦いが済んで、リンから、彼女がオスティアに来た経緯を聞き、彼女の言う「大変なこと」が何かを知り、彼女が、今後もフェレ・オスティア両公子と戦いを共にするつもりである決意を聞いた時、ラスは、彼らがこれから挑まんとする戦いは、自分に課せられた宿命に関わること…いや、むしろ、そのものではないかと思い至った。元々、自ら声をかけた時点で、ラスは、リンの抱える事情が何であれ、無条件に彼女に手を貸すつもりだった。が、この事情を聞き及んで、ラスは、この、偶然に思えた再会は、定められた運命だったのではないかとすら思った。

心情として、リンの力になりたい、という気持の上に、リンと同行し、彼女に助力することが、すなわち、自らに課せられた使命を果たすことに繋がっていく気がした。となれば、この事態は、いっそ、幸いというべきであろう、感情で成し遂げたいことと、義務ゆえなさねばならぬことが、相反せず、むしろ、ぴたりと重なるのだから、と。宿命を果たすために、おまえの許を離れなくてもいい。おまえと共にあることが、同時に、俺に課せられし運命を解くことになる、そう思えることは、ラスにとって喜びだった。

だから、ラスは、リンを通じて、フェレ・オスティア公子に協力し、行動を共にする旨を迷わず約した。

二度と会うことはないだろう、そう、自らに言い聞かせていたお前に出会えた。その上、俺がなすべき戦いが、お前を手助けできることにも通じるのだと思え、ラスは、素直に、このめぐり合わせに感謝した。

 

1年前とは比べ物にならぬ、過酷で濃密な戦いの日々が始まった。暗殺を生業とする集団「黒い牙」と、その背後にいる魔道を操る者との戦いは、一般兵を相手にする戦いとは、全くその質を異にしていた。同時に、ラスは、この戦いが己の宿業を解き、予言された凶兆を防ぐためのものであろうことを、一つ、また一つと戦いを経るごとに、より強く確信していった。

そんな気の抜けない日々の中で、ラスは、1年前には気づかなかったリンの様々な面を見出していく。

リンは、父を失ったというフェレ公子にはいたわりを見せ、闊達に素直に振舞っていた。リンは、祖父と城を取り戻す助力をしてくれたフェレ公子にーなのに、彼自身は、父を配下の騎士ともども殺され、助け出すこと能わなかったと聞いたーその彼の心痛が、リンには、他人事ではなく、辛く感じられるからだろう。リンは、過去に受けた恩義を忘れず、フェレ公子に協力したいと思ったのだろうし、それは、とても、自然な感情の発露であろう、義に篤く、恩は忘れず、厚情には厚情でもって報いる、実直で誠実な性情は、とてもサカの者らしく、かつ、他者の心痛に心寄り添わせるリンの気持の優しさに、ラスは強く惹かれるものを感じる。

なのに、リンは、オスティア候弟には、結構ずけずけとした遠慮のない物言いをする。食ってかかるように手合わせを挑んでは、重装備の候弟にあしらわれ、本気で悔しがって、懲りずに再戦を申し込むという、意地っ張りで負けず嫌いな子供のような一面も見せる。一方で、戦う力を持たないニニアンのようなものには、過保護な母か姉のように世話を焼き、また、子飼いともいえるキアランの騎士たちには、毅然とした長として振舞う。

卑怯な手を使い、人の心を玩ぶような敵のやり口には、悔しさと怒りを露にし、火のように激しい気性をみせる反面、辛い目にあった者を知るとーそれが、いいように利用された挙句、捨てられた黒い牙たちの末路であっても、自分の方が、痛みに耐えがたいというような、辛そうな顔を見せる。

同行する者たちの絶対数も、顔ぶれも、1年前とは比較にならないほど多種多彩でーそれは自分たちの戦いの深刻さを物語ってもいたがー相対する人間が多い分、リンも様々な顔を見せるのだろう、俺が知らなかった面も含めてーと、ラスは思う。

そして、それら、リンのめまぐるしい表情の変化、彩り豊かな感情の発露が、ラスには、全て、とても鮮やかに眩しく見える。

幼少時からたった一人で生きてきたラスにはー長じてからは、傭兵という「役割」としての人間関係しか結んでこなかったラスは、感情を露にするのが、苦手だ、というより、どう現せばいいのかが、よくわからない。その必要も機会もなかったからだ。木石ではないのだから、ラスとて、感じること、思うことは多々ある。が、それを、現し伝える術を知らないから、彼の感情は表に出ることなく、胸の奥底にしまわれてしまう。

だからこそ、自分とは真逆の…他者の喜びも痛みも自分のことのように感じ、それを惜しまず示す、共感能力の高いリンの心のありようが、ラスには眩しい。リンの、己の感じたままを、臆さず、躊躇わず表に出す真っ直ぐな気性にも、ラスは憧れににた思いを感じる。多分、自分には、どうやっても、できないことだからだろうと思う。

その在り様そのものが眩しいから、ラスは、つい、リンの姿を目で追ってしまう。気がつけば、リンを見ている自分にラスは気づく。

ただ、ラスが最も多く見かけるのは、リンの気を張っている横顔でー無理のないことにせよーラスは、それが、どうにも、やるせない。だから、リンを支えるために自分にできることをー決してリンに敵を近づけさせまいと、矢を放ち、敵を屠った。自分から、リンに話しかけることは、滅多になかったが、ラスは、いつもリンに近づく敵は見逃さなかったし、自分の放つ矢が、リンを助け、守っている、そう思えることが、ラスには、幸せでもあった。

もちろん、リン自身、日に日に強くなっており、ラスは、その様を見ることが、心強くも、嬉しくもある。が、そんなリンを、己が弓で守ることは、言いようのない充実と高揚をラスにもたらしてもいた。

なにより、黙っていてもーラスの放った矢羽に、リンは、必ずといっていいほど気づき、守ってくれてありがとう、と礼を言いにくるのだった。

その時は、きりりと引き締められているリンの口元が柔らかく綻ぶ。戦いに張り詰めた表情が、ふっと緩んで、リン生来の明るい朗らかさが、雲間の切れ目から覗く陽光のように、煌めいて零れおちる。その笑顔が見たくて、俺はリンを守っているのかもしれない。そんなことをラスは思う。

だから、ある戦いの時、いつものようにリンに近づく敵を屠り

「また、あなたに助けられたわ」

と、リンが嬉しそうにー微笑んで話しかけてくれた時も、ラスには、自分がやりたくて、していることだという想いがあった、だから「礼などはいらん」と自身の心の中で出していた結論だけを口にした。

リンと行動を共にすることは、喜びなのだ。

彼女は、私心なき危険な戦いに、その身を投じている。そんな彼女を、己が腕で守れることは喜びなのだ。おまえを己が腕で守れたと思えること、おまえの無事な姿を見ることは、俺の誇りであり、おまえの笑顔を見ることは、紛れもなく、そして、多分、最も大きな俺の喜びなのだ。

が、そのラスの言葉のたらなさを、リンは、率直に問うてきた。何故、そんなに無口なのか、そして、戦いに巻き込んだことを怒っているのかと、見当違いのことを、恐る恐るーリンには珍しい態度だー問うてきた。

ラスは、なんと応えればいいのか、わからなかった。

『俺は、おまえから目が離せない、惹きよせられるような、そういう力をおまえから感じる、だから、俺の手で、おまえを、できる限り守りたいと思う。でも、それは、俺が、そうしたいから、しているだけだ、おまえは、何も気にしなくていい…』

だが、この俺の思いは、おまえには知らせる必要のないことだ、この戦いが終れば、おまえは、キアランの地に帰る、血縁の者が待つ地に帰り、今度こそ、大地に根を下ろす暮らしに落ち着くことだろう。風と共に疾く駆け行くサカの暮らしとは、対極の…

そんな…行く道の異なる俺とお前が必要以上に親しんでも、得るところはない。

そう考えてきたからこそ、ラスは、リンを見守り、リンに近づく敵を過たず屠っても、自らリンに話しかけることを控えてきた。

そして、こんなことは…おまえと俺の生き方は違う、おまえと俺は、帰る場所、属する世界が違うのだから、今、親しくしても、その先はない、などという事実は、それこそ、おまえには、全く言う必要のないことだ。

そう思ったラスは、最低限の事実のみを…「怒ってはいない」「しゃべらないのは、その必要がないからだ」の二点だけをリンに告げた。

なのに、ラスの言葉にーラスは、リンを哀しませないように考え、発した言葉だったのに、リンは、一言「そう」と呟いたきり、戸惑うように黙り込んでしまった。

リンのしょんぼりした姿を見ると、ラスの胸は、いまだ覚えのない疼きに、苛まれた。

傷や怪我には慣れている、が、こんな、じくじくとした嫌な痛みを覚えるのは初めてだった。

 

「しゃべらないのは、必要がないからだ」と、伝えて以来、リンも、あまり、自分に話しかけてこなくなった。それでいい、これでよかったのだ、とラスは思おうとする。

が、言葉を交わす機会が減ったことで、ラスは、否応なく思いしる。リンは、俺が、この軍に加わった直後から、よく会いにき、話しかけてきてくれていたと。行軍の中途から軍に加わった俺に、同行者の出自や、それぞれの関係など、色々と教えてくれていた。

リンには、自分が、俺を、この軍に、戦いに巻き込んだという負い目と自責の念もあったのだろうしー実際、その懸念を口にされ、ラスは、即座に否定はしていたがーリンが、元来、誰とも親しみやすい性格の持ち主ということもあるだろう。短い間だったが、一年前に共に戦ったという気安さもあろうし、もちろん、俺が、サカだというのが、彼女が親しみを見せる、最も大きい要因だと思うのだが…

リンは俺を通じて、サカを見ている、俺をサカそのもののように感じているのだろう…サカの風、サカの草原は、おまえにとって、昔、幸せだった頃の象徴だろうから、俺の風体は、おまえに、そういう慕わしく懐かしい物を思い出させ、だから、おまえは俺を身近に感じているのだろう。俺が…おまえの凛としたたたずまい、情と義に篤い心根を、サカらしさの象徴として、焦がれ、惹かれてやまないように、おまえも、また、俺を通してサカを懐かしんでいるのだろう、そう、ラスは感じていた。

ただ、リンの示す親しみは、ラスにとって、喜びと同時に、若干、戸惑いを催すものでもあった。

リンの自分に対する態度、振る舞いは、単に懐かしさや、戦友としての親しみを通りこした、もっと切実な思いがあるような気がしてならなかった。懐かしいといっても、自分は、1年前に、ほんの僅かな期間、護衛の旅に同行しただけだし、同じ草原の民とはいえ、幼少時から互いを見知っている、所謂、幼馴染とか、そういうものでもない。第一、出自の部族自体が違う。それを考えると、リンの自分に見せる親しみは、熱すぎるようにも、ラスには思えた。

身分の差を気にしているのではなかった。ラスは、相手がリキアの公子・公女ではあっても、人間として上下があるとは思っていないので、自らの態度は変えない。彼らは尊敬に値する精神の高潔さと意思の強さを持っている、だから、相応の敬意を払う、それだけだ。彼らは、雇い主ではなく、盟友であるから。彼らも、ラスをそのように遇してくれる。元々、私的な混成軍であるこの部隊は、他の軍に比すと、所謂上下・貴賎の区別が、驚くほど緩いことも幸いしていたーこれは、盟主たるフェレ・オスティア両公子の性格による処が大きかったが。

そのリキアの人間に、おまえは、なったはずだ。おまえは、遊牧民であることをやめ、地に根を下ろす生活を選んだのだから…おまえが、親しみを抱くのは、抱くべきは、俺ではなく、リキアの人間ではないのかと、ラスは思っていた。

なのに、リンは、親しげにラスを見つめ、声をかけてきた。その瞳は、慕わしいものを見るようでもあり、時折、渇きに苦しむ者のように見えることもあって、その瞳で見つめられると、ラスは、何故か、酷く胸が騒ぎ、息苦しい気持になることがあった。

運命の偶然で、俺たちは、再び、巡りあわされたが…俺が、おまえに関わるのは、この戦いの間だけ、この戦いが終息すれば…おまえはキアランに、俺はクトラに戻ることになるだろう、それを思うと…おまえが、俺に親しみを見せてくれる程に、俺は、心浮き立ち気持と同じくらい、何故だろう、胸が酷く苦しくなる…。

ラスがこの軍に加わり、日が経つにつれ、リンが自分に親しみを見せてくれることは、純粋な喜びであると同時に…この軍に参入した当初は単純な喜びだったのに、ラスは、少しづつ、奇妙な苦痛も、同時に感じるようになっていたのだった。

だから、リンが自分に話しかけてくることが、めっきり減っても「これでよかったのだ」と、ラスは思うよう努めていた。彼女のよく通る爽やかな声を聞けなくなったのは、正直、寂しかったが、どの道、いつかは別れ別れになることを思えば…この寂しさに、今の内から慣れておいた方がいい、とも、考えた。

なのに、ふと気づくと、リンは、自分の傍につかず離れずの距離にいて、自分が、リンを狙う敵に矢を放つ間ー無防備になる僅かの間に、リンが、自分に迫っていた敵を切り伏せている、そんな時が多々あった。自分がリンを守ると同時に、近接攻撃から、自分もリンに守られている、戦いの中で、しばしば、そんな瞬間があった。

俺は、おまえを守りたいから、守る、おまえが、無事ならそれでいい、それは、俺が好きでやっていることだ、でも、だからといって、おまえが、俺を気にかける必要はないのだ…と、言っても、義に篤く、気丈なおまえは『私も好きでやっていることよ』と、むきになって言い張りそうだ。第一、厚意から俺を気にかけてくれているのであろうおまえに、そんな無礼千万な言葉を言えるはずもない、そんな、もやもやした思いを、ラスは抱え、でも、何も口にできずにいた。

そんなある日のこと、珍しく、リンが、戦場で、うわの空な瞬間があった。戦いの真っ只中に、放心されては、いくら、ラスに守る気があっても、限度がある、だから、思わず、ラスは、自分から、声をかけてしまった。

「戦場で考え事はやめておけ、死ぬぞ」と。

リンは、瞬間、心底驚いたように息をのんだが、急に、堰を切ったように…不安で、苦しくて、吐き出さずにはいられぬといった様子で話し始めた。戦場でも、祖父の容態が心配でならないのだと。そして、祖父を失ったら、自分はまた1人になってしまう、もう一人は嫌だ、と。

リンが、止め処なく、苦しそうに訴える言葉に、ラスは、衝撃を受けた。リンの周囲には多くの人間がいる、なのに、おまえは、ずっと、不安を一人で抱え、その不安を吐き出す場も、相手も、今までいなかったのか、と、この時、ラスは、初めて知った。俺が、今、不意に声をかけたことで、いつもは抑えこんでいる不安が、箍が外れたように、無防備に溢れでてしまったのだろうことも、彼女が、よく自分に話しかけてきたのは、自分には、構えず、素直に、接することができるからだったのだろうことも、同時に理解した。

考えてみれば…配下の騎士たちに、リンは長として振舞わねばならないし、自分より辛い立場にあるのに、哀しみを見せずに果敢に戦っているフェレの公子には、無論、弱音はいえまい、オスティア候弟にも、意地があるのだろう…つまり、リンには、不安を訴え弱音をはけるような相手が周囲に…俺の他には、いなかったのだ、と、ラスは悟った。

だが、たった1人の祖父を案じ気遣うリンの言葉は、同時に、そして、無性にラスの心を冷えさせもした。リンの言葉は、ラスに、リンの還るべき場所を、改めて、思い知らせたからだった。

そうだ、おまえは、祖父の元に、一日でも早く、帰りたいのだろう、この戦いを終らせて、一刻も早くキアランに戻って、祖父の無事を確かめたいはずだ…。

俺は、その手助けをしよう、おまえが、幸せであるように。もう、一人は嫌だと、辛そうに吐き捨てるように言うおまえを見るのが俺は辛い、キアランに戻れば、そんな言葉をおまえは、発しなくて済むのだろうから、俺は、おまえが少しでも早くキアランに戻れるよう、力を貸そう…そう、心に決めていたはずなのに、何故、俺の心は…キアランの様子を案じるおまえを見ていると…祖父の許に帰りたいと願うおまえを見ていると、こんなにも寂しく、寒々と感じるのか…まるで、草原にたった一人で生きていた子供の頃のように…

ラスはリンにかける言葉を見つけられず、黙りこくってしまった。リンは、この俺に…他の誰でもないこの俺に、心を許し、弱音をはいているのに、俺は、それをどう受け止めてやればいいのか、わからない…キアランに帰りたい気持、祖父の無事を確かめたい思いで一杯のおまえに、俺は、かける言葉をみつけられない。

ラスは、そんな自分が、酷くふがいなく、汚く、冷たい存在に思えた。

が、リンは、ラスが黙り込んでいる訳を、自分にはどうしようもできないことを、愚痴られて返す言葉にこまっていると解したようだった。ラスの抱える葛藤には気づかぬようで『やだな、暗いことばっかり』と申し訳なさそうな、自分を恥じるような顔をすると、一転、努めて明るい口調を装い、話題を変えてきた。

クトラのことを教えてほしい、クトラの話を聞かせてくれ、と。

暗いことばかり考えて嫌だといったおまえが、クトラの話を聞きたいという、それは…サカの話題は、おまえにとって、心弾む、楽しいことだからなのだろう…俺にとっても、故郷の話は楽しい話題の筈、と信じてのことでもあるのだろうな、とラスは察する。意識して、気持を切り替えたのであろうが、それでも、サカのことを口にするリンの瞳は、期待に輝いてみえた。

異郷に居ると、自分の生まれー出自を自分を形作る根源としてより強く意識したり、故郷を、殊の外、恋しく感じたりするものだ、物心ついてから、ずっと、サカを離れているからこそ、意識してサカらしさをーサカとしての矜持を、精神を保ち、サカの男としてあろうとしてきたラスには、リンの気持がよくわかる。

が、リンの瞳が、時折、どうしようもない渇きに耐えているように見えるのは何故だろうと、この時、ラスは、時折感じていた疑問を、今もまた感じた。クトラの話を強請るリンの瞳に、ラスは、期待と同時に、羨望とか渇望のようなものを見て取ったからだった。ただ、故郷を懐かしみ、よき思い出を反芻するにしては、苦しそうな…。

そう感じた時、ラスは、リンが、自分に不思議なほどの親しみを見せていたもう一つの理由を…そして、時折、酷く渇いた者のような目で自分を見つめてきた訳を、もしやと、思い当たった。

それは、おまえが、故郷に帰りたくとも帰れぬ故ではないのか、俺と同じように…。

つまり…おまえは、本当は草原に還りたいと、心のそこから切望しているということではないのか?

俺は、おまえは、リキアに根をおろすことを選んだのだと思っていた…が、おまえは、心の底では、今も、草原を渡る風と一体になって馬を駆り、草いきれを胸いっぱいに吸い込み…果てなく続く空と地平線にこの身を浸したいと思っているのではないのか…

だが、おまえはたった1人の肉親である祖父が大事でならない、草原には、帰りたくとも帰れない、お前の魂は肉親への情と望郷の思いに引き裂かれている。だからこそ、尚更に…どんなに強く求めても得られぬからこそ…それがわかっているから、おまえは、草原を思い出させる俺を、慕わしいものを見る目で、同時に、渇きに苦しむような瞳でみつめていたのではないのか…?俺なら、思い立てば、好きな時にサカに帰れる筈と、おまえは、俺に羨望にも似た思いを抱いたこともあったのだろうか…。だから、俺に親しみ、懐きながら…時折、餓えたような瞳で…俺を見つめていたのではないか?それなら、おまえが、いつも、どこか渇きに耐えるような瞳で俺をみていた訳も得心がいく…。

が、そう思い至った時、ラスは、更なる胸の痛みと、同時に、激しい共感をリンに覚えた。

違う、リン、俺もお前と同じだ、草原に還ることを夢見ながら、ある枷に囚われていて、帰郷が果たせない身だ。

そして、俺には、構えず、いつも張り詰めている気を解いて、弱音を吐くおまえ、そんなおまえを、俺は力づけてやりたい、慰めてやりたい。が、気休めを口にしても何にもならん…せめて俺が最近のサカの様子を知っていれば、その話をして、僅かでも、おまえの望郷の念を安らげ、慰撫できるのだろう、できれば、そうしてやりたい、俺がおまえを、安らげてやれれば、と心から思う、だが俺は…おまえ以上にサカから離れて久しい…。

そんな気持で、ラスはリンに告げた。もう、15年も、故郷には帰っていない、おまえが期待する、最近の草原の様子を、俺は知らない、お前に何も話してやれるようなことはないのだ…という苦い思いと、俺もまた、おまえと、全く同じではないが、似た境遇ー草原に帰りたくとも帰れぬ身なのだということを言外に伝えたくて…。

と、リンは驚いた様子で、ラスに部族を離れている理由を聞いてきた。傭兵として、草原を一時はなれる草原の民は多いが、幼少時からというのも、15年余りの長きに渡って故郷に戻らないというのも、類を見ない異例のことだ、不思議に感じるのは当然だろう、と、ラスは思う。

が、ラスは、その理由をリンに告げることを、瞬間、躊躇った。順序だてて上手く話せるかどうか心もとなかったことに加え、幼少時から他部族に多数浴びせられてきた侮蔑と嘲弄が、ラスの口を殊更に重くした。

リンが、自分に、侮蔑の言葉をかけるとは微塵も思わなかった、が、わかってもらえるだろうか…

と、リンが、ラスの沈黙に耐えかねたのか、申し訳なさそうに、自ら振った話を引き取った。

「あの、言いたくないならいいの、不躾なことを聞いてしまってごめんなさい」

「いや、そんなことはない」

「ごめんなさい、私、おかしいの。ラスが傍にいてくれると…なんだか、ほっとするのに、でも、何を話したらいいのか、わからなくなって…あがって、上ずってしまうようなところがあって…ラスは、前、必要がないから、しゃべらない、って言っていたでしょう?だったら、私からも、特に用事もないのに、話しかけちゃいけないかなって、思ってたし…そしたら、さっき、ラスから話しかけてきてくれたでしょう?私、驚いたのと、嬉しかったのとで、とっさに、その時、思ってたままのことを…暗い話題を口にしちゃったから…あんなこと、聞かされても、応えに困っちゃうわよね…その雰囲気を変えたいと思って、ラスの部族のことを尋ねてしまったのだけど…却って、いいにくいことを聞いてしまったのなら…」

「…いや、俺が、どう説明すればいいのか、わからなかっただけだ、他意はない。俺は、言葉を探すのが上手くない、時間がかかる…慣れていないから…すまない」

「あ、いいの、そんな…」

「次の機会までに…俺が部族を離れた理由を、順序だてて話せるよう考えておく…さもないと、上手く話せそうにない…だから、おまえは、何も気にするな…おまえは、何も悪くない、クトラの話を持ち出したのも…俺には楽しい話題だと思ってのことだろうと、そう…俺には、思えた。…だから…遠慮とか…気が引けるとか…変に気をまわさなくていい。おまえの望むままに、おまえの思うことは、なんでも、俺に話しかけてくれてかまわない…上手く答えを返せるかは、わからないが…俺にも…聞くことはできる…」

「!…ラス…ん、わかったわ…私こそ…ありがとう…」

「礼には及ばん…おまえの話に…上手く…答えてやりたいと思うのに…草原の話も、してやれるものなら、そうしてやりたいと思う…が、俺には、それが果たせんから…」

「でも、ありがとう、私が、ラスに、そう言いたいの…だから、言わせて?」

リンが、久しぶりに、何か吹っ切れたような、晴れやかな笑顔を見せた。

「ああ…」

ラスは…ここは戦場なのに…胸が温かいもので満たされていく心持ちがした。以前から、ずっと抱えていた、胸のもやもやした痛みが、薄れているのに、程なくして気づいた。

 

その機会は、程なく訪れた。

ある戦いの最中、自分たちの周囲の敵を思いのほか早く一掃できーというのも、ラスは、リンを守らねばという思いが募るほど、矢は必中の度合いを高め、リンはリンで、ラスが後背から援護してくれるのがわかるので、思い切って討ってでられるからだったー結果として、二人は敵の陣を攻める本隊と隔絶された形となり、その周辺だけ、ぽっかりと戦闘に空隙が生じたのだった。

本隊から離れすぎてしまって、暫く戦闘はなさそうだと見るや、リンは、この前の話の続きをラスに請うた。ラスは馬から降りると、此度は躊躇わずに自分の生い立ち、課せられた宿命をリンに告げた。

その中で、ラスは、初めて、己の思いを口にした。

時折、その当時のことを…世界中にたった一人で生きているような心細さを感じていた頃のことを、思い出すと。だが、過去を思い出すのは…今が、そうではないからこそだ。自分で言った通り、今が孤独ではないからだ、ラスは思う。

俺は、何ともわからぬ災いを止めるのは、俺1人に課せられた宿業だと思っていた。この世が『暗い赤』に焼き尽くされぬよう努めるのは…それが『竜の再来を阻む』ことだと気づいたのは、リン、おまえに会えたからだし、ましてや報酬も賞賛も得られぬ…誰に知られずとも、この世界を守る戦いにわが身を投じる同士がいるとは…俺と同じ目的で戦う仲間がいるとは、この軍に入るまで、思ってもいなかった。想像だにしていなかった。

だが、俺は、おまえたちに…おまえに出会い、行動を共にすることができた。宿命を課せられていた訳ではないおまえが戦うのは、キアランに残る者を守るため、キアランに災いが及ばぬようにであろうが…戦う理由は人それぞれであっていい。俺は、目的を一とする仲間に、わけても、おまえに出会えて、幸せだと、今は、思えていたから。

全てを語り終えると、ラスは、静かに祈るような気持で、リンを見つめた。

『呪い師の言葉を信じて、4つにも満たない子供を、しかも跡取りを、一人で放り出すとは、クトラのダヤンは何を考えているのか』『灰色の狼は、バカだ、凶兆を止めるにしても、その前に、子供が死んでしまったら、どうするつもりなのだ』等々、散々、浴びせられてきた父の判断を軽蔑する言葉が、一瞬、頭に蘇って、消える。ラスは、父ダヤンは、自分の行きぬく力、戦う力、そして天命を信じていたのだと思っている、が、リンは、それをわかってくれるだろうか…

が、リンは、ラスが思ってもいなかったことに…ラスにそっと寄り添ってきた。

そして、ラスに『ずっと、どこか、似ている気がした』と言った。それは、同じ孤独を知る者だからなのだろうと、傍にいると…ラスの風を感じると、安心するのだ、だから、「もう少し…傍にいさせて」と、リンは続けた。

その瞬間、ラスは、衝撃と共に、自分が、思い違いをしていたことに気づいた。

リン、おまえが、俺に親しみを見せていたのは、俺が、サカだからというではなく、俺を通して故郷の影を見ていたからだけでもなく…無論、それも、あるのだろうが…俺たちが、孤独の恐ろしさと、望んでも故郷に帰れぬ辛さを知る者同士であることを、それとなく、感じとっていたからだったのか…と。

おまえが、俺の傍に安らぎを覚えるのは、俺たちが、同じ苦痛を知っているからだ。言葉にせずとも、説明せずとも、たった一人で生きていく辛さ、絶対の孤寂に耐える苦しさ、恐ろしさを知っているからー知らない者には、いくら言葉を重ねても、わかってもらうのは大層難しい、あの辛さが、俺も、おまえにも、人としての根幹に抜きがたくある。その孤独の匂いのようなもの、それを、おまえは、最初から、俺に感じ取っていたのか。俺は、おまえに憧れに似た思いを抱いていたが…おまえは…直感で、余人にない共感を俺に感じてくれていたのか…。

そして、おまえにも、もう、はっきりとわかったことだろう、俺もお前と同じ…懐かしい母なる大地に帰りたくとも帰れぬ境遇にあるのだということを…。

おまえが、俺たちはどこか似ている、と思うのも、言われてみれば、当たり前だ。俺とお前は、余人にはうかがい知れぬ寂しさに耐え、が、それを決して口にすることなく、自分のなすべきことをなしてきた、いわば…同士だったのだから。俺たちが、めぐり合い、惹かれ合うのも、さだめだったのだとさえ思える。なのに、俺は、おまえは、俺がサカだから…それだけで、俺に親しんでいるのだと思っていた、すまないことをした…考えてみれば、おまえは、サカの者なら誰にでも親しんでいたわけではなかったのに。

そのお前が、俺の傍にいるだけで…風を感じるだけで安らぐという。俺は、不安に苦しむおまえに何もしてやれない自分がふがいなく悔しかった…サカのことを話してもやれない、おまえの心を軽くするような上手いこともいってやれない、と…。

でも、おまえは、俺が傍にいるだけで、安心すると…俺のまとう風が、おまえの慰めになるといってくれる…ならば…

ラスは、静かな口調で、自分の傍らに寄り添うリンにこう告げた。

「少しでなくともいい…」

「え?…」

「おまえが望むだけ…俺の傍にいればいい。俺の風を感じると、安心するというのなら…いくらでも感じるといい。おまえが草原に帰れぬ辛さを、それで、一時でも忘れられるというなら…俺の風を感じることが、少しでも、おまえの慰めになるのなら…」

「!!!…ラス…」

「もう、お前にもわかったと思うが…俺も、今は、草原には帰りたくとも帰れぬ身…おまえと同じ境遇だ…だから、おまえの気持ちはわかる…わかってやれると思う…」

俺も、遠く離れて帰れぬ故郷をおまえを通してみていたから、と、ラスは心の中で付け加える。

「…ラス…そんな…どうして…わかったの…?私、誰にも言ってない、言ったことないのに…」

「…安心しろ、俺は誰にもいわない、それに、恐らく、誰も気づいていまい…」

もしかしたら、彼女の親しい友は、リンの望郷の思いに感付いているかもしれない、とも思ったが、ラスは、明らかに動揺しているリンを安心させるために、わざと、こう言った。案の定、リンは、少し、ほっとした様子を見せたが、それでも、後ろめたそうに視線を泳がせた。

「ごめんなさい、私、こんな…考えてはいけないことよ、なのに…」

「キアランの者に申し訳ないから…か…」

「ん…ラスには、なんでもわかってしまうのね…そうなの、私が、サカを懐かしがったら…皆に悪い、申し訳ない、どうしても、そう思ってしまうの。実際、キアランに不満があるわけじゃないの、皆、よくしてくれる…親切にしてくれるの。なのに、私が、サカを懐かしがったら、ケントやセインが傷つく…お祖父様は枕もあがらないのに…お祖父様のためにも、私がキアランをまとめていかなくちゃならないのに…なのに、私が、サカを恋しがったら…私がサカに帰ってしまうかもって周りに思わせたら、皆を不安にしてしまうんじゃないかと…だから…誰にも言わず…」

「おまえは、今まで、不安も恐れも…サカを恋しく思う気持も…何もかも、胸の奥底に封じ込めてきたんだな…たった一人で…誰にもいわず…いや…いえず…」

ラスには、リンの想いが理解できた。

リンは、今は、いわば、キアランの長だ、キアランに来て間もなくとも、祖父が臥せっている以上、おまえにはキアランの者たちを率いる義務がある、領地の統治に関して右も左もわからずとも、どんなに不安であろうとも、その不安を表に出すことは、長には許されない。しかも、サカは血族を大事にする、義務感でなくても、情に篤いおまえは、身体の弱った祖父を残して草原に帰ることはできまい。草原を懐かしく思うことすら自分に許さず…おまえは、帰郷の望みを捨てきれぬこと、草原に望郷の思いを抱くことにすら、罪悪感を覚えていたのだろう、と。

「あ!そうか…そうだったんだわ…」

「リン?」

「私…なぜだか…キアランの皆に囲まれていても、何故か、ずっと一人だ、寂しいって気持が、どうしても拭い去れなかったの、そんなはずない、私は、もう1人じゃないのに、どうして、寂しいなんて思ってしまうの?って…そんな自分が許せなくて、わからなくて、皆に申し訳なくて…私、本当の気持は、誰にも言えずに…口にしてはいけないことだから…いつも一人で抱えてた…だから…周囲に人はいても…本当のことを言える人はいなかったから…一人みたいな気持がしていたんだわ…でも、ラスの傍にいる時は、寂しくなかった…ほっとしたの…その訳も…今、ラスにいわれて、初めてわかった…」

「ああ、俺とおまえは、同じ…孤独の苦しさ、故郷に帰れぬ辛さも知っている、だから…辛いと感じた時は、俺に言え。おまえの気持ち、お前の思い、俺には…わかる処も多い。俺には、遠慮や気兼ねはいらない…俺には…何も隠さなくていい…」

「ん…ありがとう…ラスには、私のこと、何でもわかってしまうのね、でも、どうしてかしら、ラスに、私の弱音や本音を知ってもらえてるって思うと、なんだか…ほっとするし…嬉しいような気がさえするの。でも、ラスの話しを聞いたら、自分なんて、まだまだ甘ちゃんだって思った…ラスの味わった寂しさや心細さを考えたら…その辛さに比べたら…」

「おまえが俺とまったく同じである必要はない。俺とお前は似ている…が、俺は、おまえに、俺と同じ思いはさせたくない…それと…一つ、言っておく。俺は15年故郷を離れている…が、いつか…使命を果たす途上で死にさえしなければ、俺にも草原に帰れる日はこよう。そう信じている。だから、それは、おまえも同じだ」

「ラス…」

「願いを捨てることはない。希望を持っているからといって、罪悪感を抱く必要もない」

「…私…その願いを持っていていいのかしら…サカを忘れなくてもいいのかしら…」

「ああ」

「ありがとう、ラス…」

リンが、泣き出す寸前の子供のように頼りない顔と、素直な喜びと感謝の笑みを同時に見せた。ラスは、そのリンの表情に、胸の中が暖かくな物で満たされたような思いを覚えると共に、頑是無い子供のように見えるリンの、髪をなでて慰め労わってやりたい、そんな思いに押されて、こう続けた。

「少なくとも今は…俺のまとう風がおまえの慰めになるというのなら、俺の傍にいればいい…俺もおまえから感じる風は心地よい…気持が安らぐから…遠慮はいらない」

「…ラスって優しい…そんな風に甘やかされたら…私、本当に…もっと近くにくっついちゃうわよ?」

リンが、拗ねるような甘えるような…ラスが自分の甘えをどこまで受け入れてくれるか試すような、おずおずとした、それでいて、どこか挑戦的な瞳で尋ねてきた。ラスは、そんなリンの、甘えたがりの子供のような振る舞いを、かわいらしいと思った。

「おまえが、そう望むのなら…俺は構わない…」

ラスがそういうと、リンは、瞬間、零れそうに瞳を見開いた、同時に頬にさっと朱が射した。

「ラス…笑ってる…初めて見たわ…」

「そうか…自分ではわからなかった…」

「ラス…笑うと…すごく…もっと優しい…私、ラスに、もっと、笑ってほしい…」

リンが、何かに引き寄せられるように、ラスに向けて手を伸ばすような素振りを見せ、その拍子に、リンの指と、ラスの指先が一瞬、触れあった。

ぴりっと微弱な雷が手先から迸るような衝撃と同時に、二人は、二人の身が、渦巻く一陣の風に包まれたような気がした。

「!…なに…これ…」

「俺たちのまとう風が…交じりあって…大きな風の流れに…」

「まるで…まるで…風が一つになって…」

「歓喜の声を…あげている?…」

二人は、互いに互いの顔を見合わせた。

リンが恐る恐る、しかし、此度は、明確な意図をもってラスの手に、自分の手を重ねようと伸ばしてきた、が、その前に、ラスは、自ら、リンの手を取り、しっかと握り締めた。思っていた以上に小さくて、柔らかかった。

その瞬間、リンの腰が、膝が、くたりと砕けて、リンは地にへたり込みそうになった。とっさに、ラスは、リンの腰に腕を回し、その身を支え、しっかと抱きよせた。

どこか、遠くから戦闘終結を告げる伝令の声が聞こえた。どうやら将が敵の陣を制圧したらしい。

「…戦いが終ったようだ…いかなくて…いいのか?」

すると、ラスに握り締められていたリンの手が、ラスの手の中でじれったそうにもがいた。ラスは、リンが離してほしがっているのかと思い、名残惜しい気持を抑えて、握っていた手の力を緩めた。と、リンの手は流れるように動いて、改めて、ラスの手指と自分の手指をしっかりと…容易に解けぬように絡め合わせてきた。

その時、ラスの身を鮮烈な衝撃が走って突き抜けた。心の臓がきゅ…と絞り込まれたように感じたのに、その感覚が酷く心地よく、同時に、無性に渇きを煽るーもっと、もっとときりなく何かを欲するような、そんな不思議な衝動が、心を灼いた。

リンが、潤んだ瞳でラスを見つめながら、小さく首を横に振った。

「ラス…私…私…あなたと離れたくない…もっと、傍に…一緒にいたい…」

「…おまえが、そう望むのなら…」

ラスは、リンが絡め合わせてきてくれた手指を、自らも、きゅっと力を込めて握り返しながら、もう片方の腕で、リンを己が胸に抱き寄せた。リンが、己と同じ渇望に心を焼かれているのが、文字通り、手に取るようにわかった。次の瞬間、引き寄せあうように、導かれるように、2人は自然と唇を重ねていた。

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