Famme Fatale 1 

「いよいよか…」

草原の民・サカの騎兵ラスは宿舎として与えられた部屋で武器の点検に余念がなかった。矢の数は十分か、弓の弦の張り具合は適正か、弦が万が一切れてしまった時の予備は…あまり使う機会はないかもしれないが剣も必要だ…と、チェックすべきことは、多々あった。

明日はいよいよ魔の島へ渡る。魔の島での戦いが事実上最後の戦いになろう。

そして、今…明日の出立に備え、将兵たちは各々休息をとっていた。

与えられた宿舎は簡素ではあったが、兵士1人1人…希望するものには2人部屋もあったが…に個室が与えれていた。単なる傭兵には、贅沢すぎる処遇だ。ラスは、19年に及ばんとする人生の大半を傭兵として過ごしてきたが、これ程に遇された経験はかつてない。

いや、あの公子たちは…俺たちを単なる傭兵とは思っていないのかもしれないな…とラスはこの軍の精神的支柱ともいえる3人の公子たちに思いを馳せた。今、自分が身を寄せている軍は、オスティア候弟とフェレ候公子を2本柱にキアラン候公女が加わった連合遊撃軍とでも言えばいいのだろうか。それぞれの候家の子弟が中心となって人が集まった軍だが、候家の正規軍ではない。兵たちも、公子たちに仕えていた騎士たちもいれば、公子たちを慕って集った民兵もいる。元々は敵方に与していたのに、それぞれの事情で仲間になった者もいれば、自分のように協力を求められてそれに応じた者、純粋な傭兵まで、兵員の構成は、他に類を見ないほど雑多だ。

そのせいか、ここは軍隊だというのに明白な上下関係を示すのは、各々の公子に仕えている騎士たちが自分たちの主君に相対する時位だろうか。元々この軍の成り立ち自体が、友人フェレ候子の苦境を救おうとしたオスティア候弟の義侠心と友情から生まれ、そこに、過去の経緯からキアラン侯公女であるリンの1軍が加わったものなので、それぞれの候家に属する騎士たち同士の関係も、年功や経験の差からくる敬意以外に、明確な上下関係はない。

しかも、彼らは、自分たち傭兵…それどころか敵から寝返ったものに対しても、あからさまな侮蔑や疑念を示したり、排斥をしなかった。本来外様として、軍では冷や飯食いが普通である存在に対しても、この公子たちは子飼いの騎士たち同様に遇した。

自分たち傭兵は、もちろん戦いにおいて戦果に応じた報奨をもらうが、それ以外では、公子たちと自分たちに明確な上下関係はないことも驚きだった。普通、貴族は安全な場所から軍の指揮を執り、命令を下すものだが、この公子たちは自分たちこそが先頭に立って戦った。戦略を練り戦術を組むのはあくまで軍師であり、公子たちも、騎士も、傭兵も等しくその命に従うのだ。軍師はあくまで適材適所で軍を動かし、公子たちのために、一般兵に死んでこい、などという命は決してくださなかった。

ラスは長い傭兵暮らしの間、こんな軍に身をおいたことはなかった。

傭兵とは、雇い主の命を身を張って守るために存在するものだ。雇い主は金で己の安全を購うのだから当然といえば当然だ。だが、この軍の候子たちは、自分の身を守るために、傭兵や子飼いの騎士たちの背後に隠れることを良しとしない。それは、彼らの戦いに明確な目的があり、その目的に仲間たちと供に向かっているのだという思いがあるからだろうか。

そう、彼らにとって自分たちは、多分、仲間なのだ…決して雇用主と雇い人の関係ではなく、上官と部下でもなく、ましてや捨て駒でもない…同じ目的のために供に闘う仲間なのだ。だから、それに相応しい処遇で遇してくれるのだ。

『自分は今は孤独を感じない』

そう語ったことがあったが、それはこの軍に身をおいたからこそ感じられるようになった感慨であろう。

そして、彼らの目指す目的が、己の生きてきた意味と、その宿命が重なるからであろうか…

その目的の完遂のために、この軍の者は皆迷いなく猛進することだろう、自分も含めて…。さもなくば、人類そのものの存続が危ういのだ。この事実を知っているのは、当事者である自分たち以外、ほとんどいない。俺たちの戦いの意味を知る者はいない。だが、それでいい。周知すること、褒め称えられることが目的ではない、ましてや、領土や利権、金銭などの報酬が目的の戦いでもない。ただ、事情を知っているのは自分たちだけだから、闘わなくてはならない、それだけだった。

恐らく明日から始まる数戦で命運が決する。敵も自分たちの陣営にも、もう、後のない戦いだ。自分たちのうち何人が生きて帰れるかもわからない。

それがわかっているから、今夜、休息が与えられたのだ。

ただ、この休息は振ってわいた報奨のようなものでもあった。

軍の頭領の片翼ともいえるオスティア候弟へクトルは、即時の進軍を目していたからだ。

それを押しとどめたのはオスティアの重臣オズインであった。連戦に次ぐ連戦で将兵とも疲弊しきっている。ここは最後の決戦に万全を期すべく、今夜は城にて将兵ともども鋭気を養うべきであると進言したのだ。

へクトルは、素直に…とは言い難かったようだが、その進言を受け入れた。己に逸る気持ちがあろうとも、臣の言に理あればそれを受け入れる度量をヘクトルはきちんと備えていた。そして、オスティア城内に将兵たちの宿舎を用意させた。

若く血気盛んなヘクトルの気づきにくい部分をオズインはよく補佐していた。最後の戦いを前にして、名残を惜しみたい、自分たちの心の絆を確かめあい、2人で生きて帰るのだと、更に決意を固めたいものもいよう。この混成軍には夫婦で参戦している者たちや、戦いの最中という極限状態で支え支えられながら愛を育んでいた者もいるようなのだ。最後の戦いを前にして、語り合い、確かめあいたい想いもあろう。

むろん、誰も死ににいくのではない。むしろ、皆、生き残るための戦いに赴くのだ。自分たちの進むべき道に迷いはない。そして、誰もがむざむざ死ぬ気もないだろう。この軍の兵は、それだけの実戦を潜り抜けてきた。だが、自分たちには…少なくとも自分には、自分の命より重い大儀と目的がある。自分の命を投げ出すことで、最終的な勝利が約束されるなら、俺に躊躇はないと言い切れた。…ネルガルの野望を阻止できなければ…古の火竜の召還を阻止できなければ、たとえ一時自分の命が永らえたとしても、遠からずこの大陸は焦土と化し人の世は滅亡の淵に追いやられるだろう。それだけはどんなことがあっても阻止しなくてはならないのだから…

誰もが同じほどの重さで、明日の戦いの意義を考えているかどうかはわからない。しかし、何を犠牲にしてでも、守るべきものがあり、それは自分の命で購わねばならないものだというなら、それはそれでいい、とラスは思える。少なくとも自分には、その覚悟があった。自分はこの凶兆を防ぐために大地に生を受けたのだという、部族の呪い師の言葉が、今ほどはっきりと自分の物として感じられたことはない。

でも、だからこそ、今のこの一夜の貴重さがラスにもわかる。誰もが今夜が生きて迎える最後の日でないという保証はないのだ。そして、ある人々にとっては、もしかしたら、自分の大切な人に会える最後の夜であるのかも…

そういう相手がいないものも、それぞれに、心残りのないようにこの夜をすごせるようにとの配慮は、あまりに多くの死を見取ってきた歴戦の兵オズインだからこそ生じた心配りであろう。

自分も、そして、自分の大事な人も死なない、いや、絶対死なせない、と心のどこかで確信しているかのように、自信と未来への希望にのみ満ちている若いオスティア候弟には、万が一の時のことを考え、心の準備をすること自体が辛気臭く、縁起でもないことのように思えるのかもしれない。が、勢いとやる気だけで戦場での死は免れうるものではないことを、多くの朋友の死を目の当たりにしてきた古参兵は、よく知っていたのであろう。それは、とても悲しい分別であるが…

だが、今、与えられた時間を…最後かも知れない時間を俺は誰と分かつでもなく、こうして1人戦いの準備に費やしている。心に浮かぶ、ある少女の面影だけを連れ合いにして…

俺は彼女に伝えるべき言葉を持たない。だから、この時を分かち合う気はなかった。この戦いが終われば…そして、生き残ることができれば…その時、俺の放浪は終わる。俺は故郷に帰る。およそ15…16年ぶりの帰郷だ。そしてあの少女もまた領地に帰るはずだ。そうなれば、それこそ、もう2度と会うことはあるまいから…

我知らず、吐息をついた時だった。ほとほとと控えめなノックが聞こえた。

『誰だ…今頃…』

戦い前の高揚をもてあまし、歓楽街に繰り出す兵もいるのかもしれない。だが、ラス自身は、そのような気になれない。酒も女も、今は、誘われても付き合う気にはなれなかった…

「すまんが俺は…」

といいながら扉を開けた所で言葉を失った。眼前に、今しがたこの胸に面影を思いおこしていたその少女が立っていた。

 

「あの…はいっていい?」

「あ…ああ」

腑抜けたように言葉を失い立ちすくんでいたラスに、その少女…リンが話しかけてきた。ラスは、戸惑いながらも彼女を自室に招きいれた。

リンはなぜか顔をこわばらせ、口を真一文字に引き結んで、怒っているかのように、足音荒くラスの部屋にはいってきた。

ラスは、いまだ戸惑いを払拭できぬまま、とりあえず扉を閉めた。

「そこに…」

掛けてくれ、と椅子を勧めた。と、いっても、自分1人に宛がわれたこの部屋には、簡素な机と椅子が一脚づつあるだけだった。ほんの1夜の仮の宿だし、傭兵である自分の身を思えば、ラス自身には個室であること自体が贅沢すぎる待遇だ。だが、当然来客の備えなどないので、リンを座らせ、自分は、そのまま立っているつもりだった。彼女が侯爵令嬢だから…ではなく、ラスにはそれが自然なことと思われたからだった。

「私はここでいいわ」

だが、リンは迷わず、ベッドの端に腰掛けた。

「私が椅子を取っちゃったら、ラスが立ちっぱなしになってしまうのではなくて?」

ラスは端正な切れ長の瞳を僅かに見開いた。

「ああ、そのつもりだった。おまえを…立たせておくわけにはいかない、なら、俺は立っていようと…」

「そんなことだとおもったわ」

怒ったように引き結ばれていた表情が、より一層厳しく張り詰めたものになった。リンはラスを睨むように見据えながら、挑むような声音でこう尋ねてきた。

「それは、私が…貴族だから?」

「いや…そう考えたことはなかった…来客だから椅子を勧めた。それが当然だと思う。来客が誰であれ同じようにしただろう。客に、普通ベッドに掛けろとは勧めない」

リンがあからさまに緊張を解いた。

「そう…ね。あなたって、そういう人だったわね…」

「そんなことを言いにきたのではあるまい。何の用だ?」

「私を追い出したがっているみたいね…」

やはり、挑むような口調、挑むような瞳の光。なぜ、リンが己につっかかってくるように相対してくるのか、ラスにはわからない。

「明日は…恐らく最後の戦いになる。明日、十全に力を出すためにも、早く休んだ方がいい。力が出せなくては許も子もなくなる…」

「だからっ!だから、来たんじゃないの!」

リンが突然、立ち上がった。

「明日が最後の戦い…わかってる、もうネルガルも私たちも後がない。そして、私たちが勝てなければ、世界は破滅へと向かってしまう…この世界に竜を呼び込むわけにはいかない…今の人類に竜に立ち向かう術はないから…私たちの敗北はそのまま人類の終焉となってしまうかもしれない…」

「そうだ、だから…」

「だから、来たって言ってるでしょ!ラスが来てくれないからっ!」

「なぜ…何を怒っている?」

リンは一瞬、何かを無理やり飲み下したかのような、苦しげな表情になった。そして、悲しげに、いらだたしげに首を振った。

「ラス、教えて…どうして、1年前、私に黙って…ううん、誰にも黙ってキアランを去ってしまったの?」

「それで怒っているのか?今頃なぜ…」

「いいから、答えて!」

リンの有無を言わさぬ迫力に、ラスは諦めたように淡々とした口調で語り始めた。

「用が済んだ、それだけだ。おまえをキアラン侯爵領に送り届けた。爵位の簒奪をもくろむ侯弟を倒し、侯爵を救い出した。そして、お前は侯爵と見え、侯爵の正当な後継者と認められた…俺が協力した目的は果たされた。それ以上にキアランに留まる理由がなかった」

「そのまま残って…キアランで傭兵をして私とおじいさまを守ってくれればよかったのに…」

「それはできなかった」

「なぜ?」

「前に言った。俺には族長の息子として課せられた『使命』があった…呪い師の見た『凶兆』を防ぐという…それが何かはわからない、どこに手がかりがあるかもわからない。それでも俺は『全てを焼き尽くす暗い赤』を見つけ出し、防がねばならなかった。それが真実かどうかは、問題ではない。サカの呪い師の言葉は絶対だからだ…俺は、その「凶兆」を探し続け、その時を待たなければならなかった。様々な国で、領地で傭兵をしながら、その手がかりを探らねばならなかった…」

「それならっ!それならキアランで傭兵をしたってよかったじゃないの!」

「…いや…キアランを離れられなくなること、それを俺は恐れた…」

「え…?」

「おまえの領地、おまえの仲間…僅かな期間だったが、旅をし、供に戦い、その気持ちのよさに心惹かれた。一緒にいて心地よかった…だから…引止められたら、断る自信がなかった。キアランの地に手がかりがなければ、どちらにしろ早晩俺はキアランから去らなければならない。その時何のためらいも無しに立ち去れるか…俺の解き放たねばならない宿命はここにはないと知りながら、旅立てなくなりそうな自分を恐れた…」

「そう…だったの…でも、だから…だからってっ……せめて、私に一言…言ってからに……」

「それに関しては、すまなかった。俺の心の弱さが招いたことだ。謝る」

「でも…でも、それなら…」

リンが、突然、すがるような、泣き出しそうな瞳で、ラスに詰め寄ってきた。

「今度はいなくならないわね?この戦いが終わっても、突然いなくなったりしないわね?ラス…」

「…」

「どうして黙っているの!?答えて!」

「俺が…また「凶兆」を探して旅立つといったら…?」

「誤魔化さないで!ラスの言う「凶兆」がわからないほど私は馬鹿じゃない!これが…ネルガルの野望こそが「凶兆」、それを打ち砕くことこそが、ラスの背負った宿命でしょう!呪い師が、この…恐ろしい破滅の予感を言い当てていたことは、確かに信じられないことよ、でも、私もサカの女よ!サカの呪い師の先視の力の不思議さだって知ってる!『世界を焼き尽くす暗い赤』は、多分、火竜のブレス…この事以外、「凶兆」なんてありえないわ!」

途端にくしゃくしゃっとリンの顔がゆがんだ。

「やっぱり…また…また、どこかに行ってしまうつもりだったの?私に黙って…1人で…」

ラスは、リンから視線を外し、長々と嘆息した。

「おまえは、キアランの公女だ…キアラン候家の後継者だ。この戦いが終わったら領地に帰らねばならない。そして、俺はクトラ族長の息子…やはり、この戦いが終わり世界が救われたら…宿命から解き放たれたら…俺はサカに…クトラの地に帰ることとなる…」

「それは…」

リンが酷く傷ついたような瞳になった。

「俺たちは住む世界が違う…戦いが終わって、2人供に生き残ったとしても、もう会うこともあるまい…」

あくまで静かに語るラスに、リンは殴られたようによろめいた。

ラスの言葉は予測できていたものだった。だが、自分で想像した…恐れていた以上にリンは衝撃を受けていた。

それは、ラスの言葉が全き真実だったからだ。戦いが終われば自分は侯爵領に帰らねばならない。爵位や領地はどうでもいい。ただ体の具合の悪い祖父を1人で領地に残しておくわけにはいかない、何より、自分が、たった1人の、最後の肉親の元に帰らずにいられるわけがない。

そして、戦いが終わればラスも…ラスもやはり故郷に…自分が焦がれて止まぬ草原の地に帰ってしまう?

予感していた、それを恐れていた。そして、今その恐れがリンを打ちのめしている。予感はそのまま現実となるのか、なってしまうのかと…

「だから…だからなの?自分には、もう関係ないと思っているから…私は、もうこれからのラスの人生にかかわりがないと思っているから…だから、黙って行ってしまうの…?黙って行ってしまうつもりだったの?」

こんなことを言いたいのではないのに。言いたいことは、別のことなのに…なぜ、自分はもっと気持ちが苦しくなるような言葉を発してしまうのだろう?『その通りだ』なんて言われたら、きっと息が止まってしまいそうな気持ちになるとわかっていて、なぜ、こんなことを聞いてしまうのか?

リンの心は、もつれ、絡み、自分ではうまく解すことができない。

「…黙って去ろうと別れを告げようと、別れは別れだ…もう会うこともないだろうという現実が変わるわけではない…」

「だから、来てくれなかったの?私がラスのところに来なければ…会うつもりも…こんな話をするつもりもなかったの…?」

「リン…俺にはお前が何を言っているのかわからない…」

「どうして?だって今夜が最後かもしれないのよ!生きて会える最後の夜かもしれないのに…」

「おまえは死なない。俺がおまえを守る。この身に変えても…」

「馬鹿!ラスの馬鹿!私を守ってくれても、ラスが死んじゃったら何にもならない!」

「俺とてむざむざ死ぬ気はない」

「だけど、戦場だもの!何がおきるかわからないのが戦場じゃないの!2人とも…死なないなんて誰にもわからない、それなら、今のうちに、今夜のうちに言いたいことが、伝えたいことが…あるのに…あったのに…」

怒りながら、その怒りをもてあました末だとでも言うように、リンはぼろぼろと涙を流し始めた。

泣きたいわけではないのに、泣いてはいけないと思っているのに…なぜ、こんなにも無防備に涙が出てしまうのか、リンには自分がわからない。だが、『だめなのか、どうしても、だめなのか…ラスが既定の事実のように語る『別れ』を覆すことはできないのか』…そう思うと、抑えようもなく涙が溢れてしまう。

同時に、ラスの戸惑いも頂点に達していた。

ここに来た時からのリンの常ならぬ神経質な振る舞いにラスは戸惑っていたのだが、リンの涙は、それに拍車をかけた。

気丈なリンが…いや、ずっと気丈に振舞わざるをえなかったリンが泣く、その涙がどれほど逼迫した感情からのものか、ラスにもわかる。

自分もまた、泣けない…野に1人放たれた4歳にも満たぬ頃から、どんなに辛くても、厳しい状況下にあっても、泣かなかったから。1度泣いたら…自分の内部で支えてきたものが崩れてしまいそうだったから…それは、両親も一族の者も全て一時に失い、1人草原で生きてきたリンも同様だっただろうということがラスにはわかる。常に張り詰めていないと、気を張っていないと、生きていくこと自体がおぼつかない、そんな生を自分たちは重ねてきたのだから。

「わかった、泣くな、どんな話も聞く、だから、泣くな…」

リンをなだめるため肩に手を置こうとして躊躇い、結局、リンとの距離をつめて近づくだけにとどめた。

それでも、ラスが自分に寄り添うように傍に来てくれたことと、ラスの言葉とがリンの背をすっと押した。話を聞くといってくれた、それなら…と思えた。子供のように泣きじゃくりながら、リンは訴えた。

「いやよ、ラス…どうして…私、あなたの傍にいたいって…あなたの傍にいさせてって言ったじゃないの、そうしたらラスは「おまえがそう望むなら…」って、応えてくれたじゃないの…なのに、この戦いが終わったら、もう傍にいてくれないの…?いさせてくれないの…?」

リンはこんな言い方しかできない自分に腹が立って、また涙が溢れた。これでは…ラスの言葉を言質にとるなんて「あの時こういったから、これからもこうしろ」なんて…自分の我侭を、無理を押し通そうとする子供と同じではないか…月を取ってくれと父に泣きついた幼子の時と全く変わらないではないか…でも、いやなのだ、心が頷けないのだ、ラスが…ラスが去ってしまう、もう会えなくなる、そんなことは耐えられない!ラスの傍にいたい、ラスに傍にいて欲しい、望むことはそれだけなのに!

「リン…おまえには帰るべき場所がある。俺にもまた…そして、その地は同じではない」

ラスにはリンがなぜ、聞き分けのない子供のように振舞うのかわからなかった。わかりきっていることではなかったのか…戦いが終われば各々の肉親が待つ地に…リンにとってキアラン領は祖父がいる地というだけで心情的には故郷とは呼べないだろうが、だが帰るべき地であることは確かであり、戦いが終われば自分たちが一緒にいる理由はなくなる…自明のことだとラスは思っていた。だから…ラスはリンに語るべき言葉を持たなかったというのに。

「わかってるわ!でも、私はラスの傍にいたい!ラスに傍にいてほしいの!」

いえた…漸く言えた…これが、これだけが大事なこと。この言葉が、この一言が言いたくて、言えなくて、でも、今、言わなければ絶対後悔すると思った。でも、ラスは…ラスはどう思っている?

ラスは驚いたように瞠目していた。

「おまえは…今も…いや、戦いが終わったあとも望むのか?俺が傍にいることを…俺の傍にいることを…?」

実際ラスは少なからず驚いていた。

確かに、以前、リンは自分の傍にいたいと言っていた…

その求めに…「あなたの傍にいたい、自分の傍にいてほしい」という求めを示された時、ラスはめまいがするほどの甘美な思いに圧倒された。そこが戦場であることを一瞬忘れそうになったほどに…

傭兵として頼られ必要とされることはそれまでも多々あった。しかし、自分という人間をここまではっきりと欲してもらったのは…多分初めてだった。そして、その感覚は信じられないほど、甘く瑞々しい思いでこの胸を満たした…

だが、それは戦場でのことだった。極度の緊張状態、極限状況である戦場で、故郷の匂いを感じさせる自分に、リンは精神安定を求めたのだと思っていた。いや、それだけなのだと思い込もうとしていた。

『おまえは俺に風を感じると言った…俺の傍にいると落ち着くとも言ったな…それは、俺に、帰りたくても帰れぬ草原を…そこを吹き渡る風を見るからだ…俺に生まれ育った地の面影を見、その憧憬を投げかけているにすぎない…恐らく…』

リンが自分に示す思慕は、故郷への思慕の身代わり、それだけだと思おうとした。

どちらにしろ、お互い別々の地に帰らねばならない身だという認識がその諦念に更に拍車をかけていた。

「おまえは、俺に、帰れぬ故郷の幻影を見ているだけだ…己が身がサカの地にあれば、俺を求めることなどなかっただろう…」

「なんで?なんでそんなことをいうの!?私はラスに傍にいて欲しいの!ラスの傍にいたいのよ!サカの人だからじゃないわ!だって、こんな気持ち、同じサカの民でも、ギィやカレルさんには感じない…あの人たちも風をまとってる、でも同じ風じゃない!一緒にいたいのは、一緒にいて同じ風を感じたのは…心が落ち着いて満たされたのはラスだけよ!草原の只中にいるように、楽に息がつけた…私、ラスと自分が、どこか似てると思った。同じ風を感じた……一緒にいたい理由がそれでは…ダメなの…?」

「ギィ…?同じ風…?そう…か…俺たちは似ているから…」

ラスはその言葉で、リンの切実な訴えがすとんと胸に落ちたような気がした。同時にリンが求めるものに、漸く気づいたような気がした。

俺たちは同じ孤独を知る者…そうだ、リンはそう言っていたではないか…俺たちは、2人とも、事情は異なれど否応なく1人で生きてこなくてはならなかった…。ふとした時に唐突に思い知る弧寂。全身が寒風に包まれるような寂寥は…経験のない者にはいくら言葉を尽くそうと実感できまい…それがいいか悪いかではない。また、だからといって周囲の者に自ら壁を作っているつもりはない。ましてや、己を憐れむようにその寂しさに溺れる気もない。リンも同様だろう。だが、俺たちは何も言わずとも、説明せずとも、この感覚を共有できる、あの寄る辺なさをお互いに知っているから…きっと誰よりも…

他の者にはわからぬであろう心の揺れを、理屈ではなく、実感としてわかってもらえること。

それは、安らぎなのか…?救いであるのか…?

上手くいえないが、同じ心の欠けを知っているから、弱った時もそれを無理に隠さずともすむ……『私は強いから』と自分に言い聞かせないですむことは、常に張り詰めて生きてこなくてはならなかった者には…どう感じられることか…

リンが、俺といると落ち着くと言ったわけがわかるような気がする。

そして、この安寧を求めることは…逃げなのだろうか?弱さとして糾弾されることだろうか?

俺は…そうは思わない。

リンは以前俺に言っていた…「もう、1人はいやだ…」と。が、すぐに、そんな事を口にした自分を恥じたようだった。俺はその心情の吐露が恥ずかしいことだとは思わなかったが…もしや、リンは、そんな心の内を…誰にも明かしたことがなかった…いや、明かすことができなかったのかもしれない…同じ風を感じた俺以外には…

それに…俺は、今、おまえと話すまで『俺たちはいずれにせよ別々の地に帰らねばならない、どれほど、心惹かれるものがあろうとも…俺たちの人生はもはや交差する余地はないと』と、目に見える事態しか見ていなかった…その現実を覆せるか、覆すためにはどうすればいいのか、何も考えようとしなかった。なのに、おまえは、そんな俺に愛想尽かしを食らわすどころか、それでもなお俺を欲してくれた…

リン、おまえは知らないかもしれないが、おまえに求められること、これほど、俺に喜びを感じさせてくれたものはない…

それに、俺がお前の求めに応じるのは、応じたいと思ったのは…同族だから助ける、同族だから見捨てておけない、それだけではないと…今、おまえのおかげで、わかった。漸く俺の目は開いた、開かせてもらった。

おまえに言われて初めて気づいた。そうだ、この軍にいるサカの民は…サカ産まれの者は確かにおまえだけではない。ギィとは同族で故郷のことも話したことがあるというのに、そのとき、俺は同じ風を感じていたか?…俺にはもうはっきりとした記憶のない故郷、それでも身体が覚えている、大地の匂い、あの風の感触…そして自分がサカの地にいる時のように落ち着いたのは…サカの風に髪をなぶられているような思いを抱けたのは…俺も確かにおまえと供にいる時だったと、今、はっきりいえる。俺もまた…心弱き者なのだろう…だが、そう思えることが今はなぜか心地いい…

『おまえが、そう望むなら…』

あの時、俺はこう言った。

そして、今も…これからも、俺と供にいることで、おまえの心が楽になるというのなら…安らいで息がつけるようになるというのなら…おまえがそれを望むなら…

今も、俺は、喜んで同じ言葉を告げよう…

それこそが、俺の喜びなのだと、気づいたから…

ラスの心に今、ひとつの決着がついた。

「ラス…?」

客観的には僅かな間だったが、突然沈思黙考してしまっていたラスに、リンの不安は極限に達していた。ラスが自分の言葉をどう思ったのか、どうするつもりなのか知りたい。このまま黙っていたら、ラスはやっぱりそのままクトラに帰ってしまう?そう思ったら我慢できなかった。

「ラス、どうしても帰ってしまうの?どうしても、すぐクトラに帰らねばならないの?少しの間でもキアランに…」

来て、傭兵隊長になってはもらえないの?と言いそうになったところで、リンは、はっとして慌てて口を手で押さえた。

自分はなんと無神経な事を言おうとしたのだろう…ラスは以前、いや、今も言っていたではないか。4歳にも満たない時に、族長の息子だから世界を救えといわれ部族から1人切り離され、15年以上も故郷に戻ること能わず…自分は草原を離れてたった2年にも満たぬのに、草原をわたる風の匂いが、冴え冴えと身体を貫くような月の光が恋しく懐かしくてならないのに、そんな月日をラスは15年以上にもわたってたった1人でやりすごさねばならなかったのだ…そして、この戦いが終われば…漸くラスは故郷に帰れるのだ、帰りたいに決まっているではないか…私だって、私だってあの風の感触、草の匂い…どこまでも途切れぬ草波が忘れられないのに。そして、誰よりもラスの『孤独』がわかる私は、間違ってもこんなことをお願いしてはいけない!

「ラス、ラス、今のは…なんでもないの、ごめんなさ…」

「リン、俺はキアランに行くことはできない…」

リンの謝罪の言葉とラスの淡々とした宣告が重なった。

「ん、ごめんなさい、わかってるの、ごめんなさい…」

また、涙がこぼれた。自分はキアランを離れられない、ラスの言うとおりだ。キアランには、たった1人の肉親である祖父がいる。自分が草原に帰りたくても帰らないのは、ひとえに祖父と離れがたいからだ。一族の大半を、両親を眼前で山賊に惨殺された…すんでのところで父に逃がされたその後は1人で生きていくだけで精一杯だった。僅かに生き残った者たちも離散してしまったから…。だから、強くなりたかった。いつかあの山賊どもを根絶やしにするのだと誓って、剣の腕を磨いた。復讐だけを心の糧にして生きていた日々…自分はまさに天涯孤独だと感じていた日々の果てに、自分にも肉親がまだいるのだとわかった時のあの喜び…そして、祖父もまた、消息不明だった娘の子である私のことを知り、喜んで迎えてくれた…そんな祖父の許を離れることは考えられない。だからといって『自分はキアランから離れられないけど、ラスのことは引きとめたいから帰らないで』なんて、そんな手前勝手なこと、許されるわけがない…

自分はラスと同じ孤独を知っている。この身のはかなくなりそうな、寄る辺のなさ、頼りなさを知っている、だからこそ、言ってはならない言葉があるというのに…自分は、甘えから、これ以上ラスに寂しい思いをさせようと、それを頼もうとしていたのかと思うと、恥ずかしくて、情けなくて更に涙が出た。

「泣くな…おまえが泣いたり、謝ることはない」

「だって、私…ものすごく自分勝手なことを…ラスの気持ちも考えずに…」

「何のことだ?俺は…俺がキアランの傭兵になったら、おまえの祖父が心休まる時がなくなるだろうと思ったからだ…」

「え…?」

「お前が望むなら…すぐにクトラに帰らなくてもいい。だが、おまえの母は…当時キアランで傭兵をしていたおまえの父と出会って愛し合い、領地から出奔してしまったのだろう?俺が傭兵となれば、おまえの祖父にはどうしても、その時のことが想起されよう。おまえもまた、自分を捨てて草原に行ってしまうのではないかと、サカの傭兵がかわいい孫を攫ってしまうのではないかと、不安と疑心に苦しめられるかもしれん…いまだ傷の癒えておられぬ侯爵にそんな思いをさせてはいけない…」

「ラス…あなた…」

リンは言葉が出ない。私は自分のことしか考えずにラスを引きとめようとしたのに、ラスは…ラスは、祖父の気持ちを考えたら、キアランにはいられないと、そこまで考えて…?

「しかも…おまえは、実際、心の奥底では、草原に帰りたいと切望しているから…」

「ええ、ええ。でも、私、おじいさまと離れることもできない…」

そう、私はキアランに帰らねばならない。でも…ああ、どうしよう、私、この人を知るほどに好きになってしまう…戦いが終わればもう、会えないのに…この気持ちは行き場がないのに…うつむいて何かを断ち切るようにきゅっと唇を噛んだその時、思ってもいなかった言葉がリンの耳に飛び込んできた。

「ああ、それもわかっている。だから…待つ」

「え…?」

「俺が待つ…」

「待つって何を…?誰を…?」

「おまえは今、選ぶことができない。祖父への思い、草原への思いがおまえを2つに引き裂いてしまう。だから、時を待つ。おまえが草原に戻る日を俺が待つ…その日が来て、なお、俺を欲していたら…クトラの地に来い。その身ひとつで…」

「ラス…それって…それって…」

「いくら時を経ようと運命が俺の…俺たちのものならば、必ずめぐり合える。俺たちが…何の約束もなくともアラフェンで出会えたように…だから、おまえの気持ちが変わらなければその時はクトラに来い。俺が迎え入れる。おまえはクトラの民となる…」

「それは…族長として、1人になってしまった他部族の女をクトラで受け入れてくれると、いうこと…?」

リンは自分の耳に聞こえる言葉が信じられない。ラスは…単に次代の族長として身寄りのなくなったサカの他部族の女を1人、己の部族に受け入れるというだけのつもりではないかと…自分に都合のいいように思い違いをして浮かれてはいけないと、必死に自分に言い聞かせていた。

ラスの瞳が僅かに和んだ。

「俺は『おまえが俺を欲していたら…』と言った…単に、草原に帰りたいなら…とは言っていない」

「いや!そんな言い方じゃいや!お願い、ラス、はっきり、わかるように言って…?」

「…お前が望むなら…俺はおまえのそばにいよう。喜んでお前と供に在ろう。父なる天と母なる地にかけて誓おう、いつまでもおまえの、おまえだけの傍にいると…この命の尽きるその日まで…」

「ラス…」

「もし、俺たちが、互いに必要としているのなら、時が経とうと、どこにいようと会える。風と陽光のように…現に俺たちは再び出会えた。あの砦で。だから俺は待つ。時が満ち、再び会える日を。そして、その時おまえはクトラの民となり…」

「ラス…」

「…いや…俺の伴侶となり…そして、俺の子を産むんだ…」

「…っ…あぁ、ラス…ラス…」

リンはラスの名をよぶことしかできない、これは夢?あまりの歓喜に足が雲を踏みしめているように頼りない。

「待っていてくれるの?私が、サカの地に…草原に帰れる日まで…私を待ってくれるの?」

「おまえが…そう望むなら…」

リンの顔が泣き笑いになる、同時にリンはラスの胸の中にぶつかるように飛び込んで行った。

「ラス、あなたって、あなたって…」

「ああ…」

控えめにリンの背に腕が回された。

「私が望むなら…何でも言うことを聞いてくれちゃうみたい…いえ、心の表に出ていない望みまで、私のためにかなえてくれるみたい…でも、でも、ラスはそれでいいの?本当に…?」

「リン…おまえが俺を必要だといってくれた言葉…あの言葉ほど、生涯、俺の心を震わせた言葉はなかった…おまえにはわからないかもしれないが…おまえに望まれ、俺が「おまえが望むなら」という言葉で応じさせてもらえること、この事以上に幸福な思いを感じたことはない。おまえの求めに応じることこそが、俺の喜びだ…」

ラスは感極まったようにきゅっとリンの頭を抱え込むように抱きしめた。

自分だとて、最初は、ある意味、成り行きでこの戦いに加わったようなものだった。

故郷の風を思わせる少女に出会った。気がついた時は、その少女を助けるために弓を引いていた。少女が血族を救うための戦いをしていると聞き、助力する気になった。だが、それはほんの1時の係りのはずだった。自分ではそう思っていた。だから、目的が達せられたと思ったとき、自分は、すぐにまた、ただの傭兵に戻った。辞去の言葉もなく少女の許を去った。侯爵令嬢であったその少女とは2度と会うことはないだろうと思いながら…

だが、再び出会った。少女はその時も闘っていた。助けがいるか?と問うと、ひたむきに、必死に必要だと答えてくれた…

風に導かれたかのような出会いだった。その時の彼女は…俺をあくまで戦力として必要としたのだろう…それでも、求めに応えることは当たり前のこと、いや、むしろ喜ばしいことに思えた。

そして、俺は少女の助力をするうち、いつしか悟った。

この戦いこそが…己の宿命なのではないかと。1人の少女の求めに応じて、身を投じたこの戦いこそ、俺が与えられた役割…世界を焼き尽くそうとしている暗赤色の禍々しい物を打ち破るための戦いなのではないかと。

彼女との出会いが、俺を宿命に引き合わせた。いや、宿命を追っていれば彼女との出会いは必然だった…俺と彼女は出会うべくして出会ったのだ。

サカの呪い師の言葉など、他の民は信じまい。俺が課せられた宿命も、そのために舐めた身が千切れそうな程の辛酸も「馬鹿な言葉に従ったものよ」としか受け取られないだろう。俺が幼い時から浴びせられた侮蔑と嘲弄は、俺へのものというよりは…『世迷言を真に受けて跡継ぎの息子を野に放った族長』とみなされた父と、俺の部族そのものへ向けられたものだったのだと思う…

だから、俺は誰にもこの事を話したことはなかった。呪い師の言葉の重さを知っている同じクトラの少年にも、暗い目をもつ刃物そのもののような剣士にも…なのに、なぜか、彼女には話してしまった。自身の影のような孤独を、その訳を…誰かに聞いて欲しいと考えたことも、理解されないことを苦痛だと思ったこともなかったのに…なぜか、彼女には話してしまった…

俺の話を聞いた彼女は…ただ、俺の傍にいたいと、いさせてくれと言った…

俺の身体にそっと寄り添ってきた彼女のぬくもりを感じたその時、体中の血が沸騰して逆流したような気がした。突然、爆発するように胸に沸いた幸福感に目がくらんだ。これほどの血の滾りを覚えたのは生涯初めてだった…。彼女は俺の生きてきた道を丸ごと受け入れた。その上で、俺という存在を欲してくれた…人から戦力としてではない「自分」という存在を必要とされ求められることが、これほどの甘美、これほどの激情をもたらすとはついぞ知らないことだった。

その時に、気づいていれば…なぜ、誰にも話したことのない己の流浪を彼女には話してしまったかを考えれば、答えは自ずと明らかだったのに…彼女が「もう、1人はいや…」と搾り出すように俺に…恐らくは俺だけに告げたことと、要は同じことだったのに…

今、思えば彼女が俺を見つけ、俺を求めた時から、俺たちはサカの風に導かれていたのかもしれない…いや、俺の方にこそ、リン、おまえが必要だった。だからサカの風が俺にお前を娶せてくれた。天なる父が俺に課した使命、それを果たすことに対する母なる大地からの恩寵、それが、リン、おまえのような気がする…だが、その恩寵を真に己のものにするためには、自らの決意が必要だった。おまえのように…自らの欲するところを見据え、それを手にするための決意が…

リンが、俺の真意を確かめに…自分でも自覚していなかった真意を確かめにきてくれてよかったとラスは、今、心から思っていた。俺は…長いこと澱のように身にしみついた諦念から、何よりも尊い宝を自ら手放すところだったのだから…

「ラス…じゃあ、私、あなたを好きって言っていいのね?好きだから、待っていてと言っていいのね?」

「ああ…俺は待つ。草原で待っている、おまえを…」

「ええ、私は、必ずサカに…クトラに行く、だから、ラス、その日まで待っていて…」

「ああ…」

「これは約束の標…」

リンは、ラスの腕の中でつま先立ちになって、顔をはすかいにし、ほんの一瞬、唇をあわせた

「………」

ラスが呆然としたように瞳を見開いた。僅かに頬に朱が刺した。

「クトラとロルカでは、口付けの意味が違うのか…?」

クトラでは、口付けは契りを結ぶと決めた相手としか交わさない。口付けは、神聖な約束の証だ。私はあなたのもの、あなたは私のものだという、宣言だ。

が、リンが生まれ育ったロルカでは、それほどの意味はないのかもしれない…リンの母はリキアの貴族だから…単なる愛情表現として、俺に口付けたのかもしれんと、うわずりそうな気持ちを、ラスは何とか鎮めようとしていた。

「サカの民で、口付けの意味が違う部族なんているのかしら?」

しかし、リンは挑むような瞳とぶっきらぼうな口調で否定の言葉を言い放った。同時にラスの頬の赤みが伝染したように、今になってリンの頬がかぁっと朱に染まった。

「なら…これは…契りの…」

「私は本気よ…。だって、ラス、言ったじゃない?俺の子を産めって…私も、いつか、ラスの子供、産みたい…」

「…」

真っ赤になって気持ちを訴えるリンを、ラスは瞳を柔らかく細めてみつめていた。

自分を見つめているこの表情…とても優しい瞳…私、見たことがある…リンは思い出した。そうだわ、馬を…世話している時、すごく穏やかな瞳で微かに笑っているような口元で馬を見てた…ラス、あんな顔をするんだ、私もあんな瞳で見つめられてみたい…そう思った…その時に、私の心はラスに捕らえられていたのかもしれない…そして私の願いは…今、かなったの…?

リンが熱に浮かされたようにラスの顔を見つめ返していたその時だった。

「もう夜も遅い…行かなくていいの…か?」

リンは、その言葉に大きく瞳を見開くと、きっとした表情でラスを見据え、頬を両手で包むように挟み込んでラスの動きを封じた上で、もう1度自分から口付けた。ラスの顔をぐいと掴んだ拍子に、バンダナに指がかかり、ラスの髪をいつもまとめているその布がはらりと床に落ちた。だがラスに、そんなことに気を回す余裕はなかった。

「リン…」

リンの瞳に激しい感情が渦巻き燃えていた。

「ラス…あなた、サカの誓いの口付けをなんだと思っているの!?私の本気を見くびらないで!この期に及んで私を追い出すつもりだなんて!怒るわよ!」

「…すまん……ロルカとクトラとで…契りの意味する処が異なっていたらと…そうだとしたら、おまえが困ると……」

「…もう…私は本気だって言ってるのに…」

たしなめるような言葉の後、リンは突然、口を尖らせてすねたような口調でこう続けた。

「そ、そりゃ…手順とか…その、やり方とか、あやふやっていうか、よくわからないところもあるけど…」

一拍おいて、挑むような力強い瞳でラスを見据えた。

「でも、本気なんだからっ!」

その瞬間、ラスがこの上なく楽しそうに破顔した。リンは、図らずも、ラスのその笑顔に見入ってしまった。

『ラス…私、ラスにもっと笑って欲しい。私、ラスの色々な顔をもっと見たい…』

思えば、ラスが髪を顕にした姿を目にするのも初めてではないか…何だか、私の知らないラスみたい…私はまだまだラスのことを知らないことだらけだ…ラスを見つめていると、どうしようもなく早まっていく鼓動を抑えたくて胸に手をあてようとした時だった。

「リン…ならば、俺もこの身を以って証を立てよう」

ぐいと強引に顔を引き寄せられた。柔らかな唇が触れたかと思うと、熱くぬめっとしたものがリンの口腔を侵した。

「んんっ…」

乱暴とも思える性急さで舌をからめられ、吸い尽くさんばかりに口を吸われた。リンは頭がくらくらして、よろけるように全身をラスに預けてしまった。

リンの身体を柔らかく抱きとめると、ラスは1度唇を離した。

「もう…遠慮はしない…」

「…ん……」

2人は唇を合わせながら、競いあうように、互いの装束の袷を緩めていった。


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